ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

大宣教命令は誰に語られているの?

 みなさんは、大宣教命令はクリスチャン個人に語られていると思いますか?

 

 それとも、キリスト教会全体の課題でしょうか?

 

 日本ではそれ程ではないかもしれませんが、英語圏ではマタイ28:16~20を水戸黄門の印籠のように突きつけて、伝道や世界宣教の必要性を強調するケースが目立ちます。

 

 伝道が重要であることは確かですが、御言葉はどの箇所であろうと正しく解釈しなければなりません。

 

 この記事では、主イエスが誰に対して大宣教命令を語っているかを確認したいと思います。

 

大宣教命令と伝道の違いを知りたい方はコチラ→教えることと大宣教命令(外部サイト)

 

マタイ28:16~20・新共同訳

さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。17 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。18 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

  

 この箇所の意味について、米国の著名な神学者ジョン・パイパー氏は次のように述べています。 

“Do you mean that Jesus commands every single believer to be a missionary to the nations with the gospel and a focus on crossing cultures and reaching all the nations, which is in fact the focus of the Great Commission (not just local evangelism)?” 

The answer to that question from the Bible is clearly no, he doesn’t expect that or command that.                                  引用元 

質問者

「イエスは、すべての信者に宣教師になれと命じているのでしょうか。すべての信者に対して、文化を超えてあらゆる国の民に福音を伝えよと命じているのでしょうか。大宣教命令が世界宣教を意図しているのは事実です(単なる地域伝道ではありません)」

パイパー氏:

この疑問に対する聖書の答えが、「いいえ」であることは明確です。主はそういうことを期待しておられませんし、そういうことを命じてもおられません。

 

                 * * *

 

 そもそも、なぜこのような疑問が生じるのでしょうか?

 

 英語圏の場合、聖書の訳文に一因があるかもしれません。

 

 邦語訳の場合、19節に「あなたがた」という主語が訳出されています。

 

 しかし、英語訳聖書には主語がありません。

 

NIV・マタイ28:19

Therefore go and make disciples of all nations, baptizing them in the name of the Father and of the Son and of the Holy Spirit 

 

 それゆえ、あたかもクリスチャン個人に命じられているかのように受け取れるのです。

 

 しかしギリシャ語本文を見ると、19節の主動詞である「弟子にしなさい」の語形から、この動詞の主語は二人称の複数形であることがわかります(参照:バイブル・ハブ)。

 

 この点は19節の「洗礼を授け」や20節の「教えなさい」も同様で、どちらの分詞も複数形で書かれています(分詞とは英語で言うing形)。

 

 つまり、主イエスは「あなたがた」という複数の信者に対して語っているのです。

 

 16節を見ると、対話の相手は十一使徒であることがわかります。

 

 使徒は教会の代表者ですから、この命令は個人ではなく教会(公同の教会)に語られているのです。

 

 このことは20節を見れば一目瞭然です。

 

 主は命令の対象者に対して、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束しておられます。

 

 つまり、現在の天地が存続するかぎり、主は教会と共に居ると約束しておられるのです。

 

 このような約束を、クリスチャン個人個人に語ることはできません。

 

 クリスチャン一人一人は、世の終わりが来る前に死んでしまうからです。

 

 このことからも、大宣教命令が教会全体に語られていることがわかります。

  

まとめ

 

 外部サイト「教えることと大宣教命令」に書かれているとおり、大宣教命令は単なる伝道の命令ではありません。

 

 大宣教命令には、聖書全体を「教える」という大きな意味があります。

 

 それはクリスチャン個々人にできることではありません。

 

 大宣教命令はクリスチャン個人の召しではなく、キリスト教会全体が果たすべき包括的な使命です。

 

 この点を見誤ることのないように注意しましょう。

 

 おわり

 

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羊と山羊の喩えの「わたしの兄弟たち」とは誰のこと?

 
 マタイ25:3146の「羊と山羊の譬え」の解釈についてご質問をいただきましたので、簡潔にご説明します。
 
 この箇所の解釈のポイントの一つは、マタイ25:40「わたしの兄弟たち」が誰を意味するかにあると思います。
 
「わたしの兄弟たち」という表現は、次の箇所にも見られます。
 
 
マタイ12:4950
それから、イエスは手を弟子たちのほうに差し伸べて言われた。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。50 天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」
 
 
 上記の箇所からわかりますとおり、イエスさまにとって「兄弟」とは「父のみこころを行う者」です。
 
 神のみこころを行うには、まず神を信じ、思いが新たにされなければなりません(ローマ122、へブル116
 
 従って、マタイ25:40の「わたしの兄弟たち」は、イエス・キリストの信者であるクリスチャンであることがわかります。
 
 おわり
 

質問者さんへの応答 番外編

 
赦すとは⚪⚪である という定義は出来ないものなのですか?
 
 赦すの意味をネット検索すると、次のように書かれています。
 
赦すは特に「罪や責任を免除する」ことを意味します。
 
 この定義で良いと思います。

                   * * *
 
使徒の働き1637節のパウロの行動は赦しとは矛盾しませんか?
 
 ローマ市民権の基本的な内容は「十二表法」と呼ばれた成文法でした。その十二表法の第一表は訴訟手続きで、内容は次のとおりです。
 
*もし(誰かが誰かを)法廷へ呼ぶならば(呼ばれた者は)出廷しなければならない。もし出廷しなければ(訴えた者は)証人を立てなければならない。その上でその者を捕らえることができる。
 
 ところが、使徒16:37にあるパウロの発言から、本来は市民の権利を守るはずの警吏が裁判にかけずにパウロを捕らえて牢に入れたことがわかります。つまり警吏たちは第一表に背いていたのです。
 
使徒16:37
ところが、パウロは、警吏たちにこう言った。「彼らは、ローマ人である私たちを、取り調べもせずに公衆の前でむち打ち、牢に入れてしまいました。それなのに今になって、ひそかに私たちを送り出そうとするのですか。とんでもない。彼ら自身で出向いて来て、私たちを連れ出すべきです。」
 
 悪いのは警吏のほうですから、パウロの主張は至極当然です。
 
 
旧約聖書では聖絶以外にも敵を家族、民族ごと滅ぼしたり、復讐を神が命じたりしていますが、それにはどのような訳があったのでしょうか?
 

 以下のサイトを見ますと、米国で著名な神学者のジョン・パイパーが答えているので彼の答えを要約します。
 

そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」
 

 パイパー氏はヨブ記の箇所に基づいて、すべての人の命は神のものだから、たとい神が人の命を取り去ってもそれは正しいことだと彼は説明しています。
 
 生かされているとが恵みなのだということです。
 
 
 
 こちらは南部バプテスト神学校による動画ですが、やはりパイパー氏と同じような説明をしています。
 
140
神が女性や子供を殺すことは倫理的に正しいのです。
 
230
我々が完全な形で理解しないとしても、神は正しいのです。我々が神は不正だと言うなら、我々は自分の知識を過剰評価しているのです。しかし実際はどうかと言うと、我々はすべての事を知っているわけではありません。義という立場にいるのは神だけです。だから神は、そういった裁きを下すことができるのです。
 
 
ゴット・クエスチョンは、次のように説明しています。
 
これらの神の命令の中で、多分最も難しい部分は、神が子供たちの死さえも命令されたということでしょう。神はなぜ、無垢な(罪のない)子供たちの死を命令されたのでしょう? (1) 子供には罪がないのではない。(無垢ではない)(詩編51:5;58:3) (2) これらの子供たちは成人して、悪の宗教を信じ、親の習慣をするようになるだろう。 (3) 彼らの命を子供の時に取ることで、神は彼らが天国に行けるようにされた。私たちは子供はみな死んだら神の恵みと憐れみによって天国に入れてもらえると固く信じます。(2サムエル12:22-23;マルコ10:14-15;マタイ18:2-4)

さて、この答えは、すべての問題を完全に取り扱ってはいません。神の道が理解できなくても、私たちは神に信頼することに焦点を合わせるべきです。それから、神がすべての事柄を永遠の観点から見ておられるということ、そして神の道は私たちの道よりも高いということも覚えておかなければならないのです。神は正義であり、義であり、聖なる、愛のあるお方、憐れみ深く恵み深いお方なのです。神の性質がどのように共に働くかは、私たちにはミステリーです。しかし、それは神が聖書が宣言しているお方ではないという意味ではありません。
 
おわり

質問者さんへの応答 後半

 
人を赦せとありますが、赦すべきなのは同じクリスチャンであり、相手が本当に悔い改めている場合ですか?
 
 この疑問に対する答えは、すでに前回の記事に取り上げたイエスさまとステパノの手本に見られると思います。
 
 二人の祈りにある「彼ら」の中には、悔い改めない不信者も含まれているからです。

 それでは、次の質問に進みましょう。
 
 
赦しの内容は個人的な怒りや憎しみ、復讐心を取り除くことですか?
 
 必ずしも、そういった感情が消えてなくなることだとは思いません。
 
 仮に感情が伴わなくとも、相手を赦すという意志による決心(信仰)とそれに基づく告白や宣言をするなら意味があると思います。
 
 
へブル11:1
信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
 
 
 上記にあるとおり、信仰とは目に見えないものを信じることです。
 
 自分の中に、目に見えるほど明確な赦しの気持ちがなくても、信仰によって赦すと決めるなら、それが実現するはずです。
 
 ただし、自分自身の心も傷ついているはずなので、主の慰めと癒しを求めるべきだと思います。
 
 
相手を訴えるのもやめなければならないのですか?
 
 これは、法的な訴訟を意味するという前提でお答えします。
 
 もし相手の行為によって経済的損失を被ったり、怪我や精神疾患を負わされた場合、
 
 つまり、相手が法的に責任を取り、社会的に償う必要がある場合、法に訴えても良いと思います。
 
 そういう場合は、もはや宗教的な領域を超えているからです。
 
 イエスさまは、以下の箇所で政教分離の原則を示されました。
 
 政教分離の原則に関する詳細は、次の過去記事をご覧ください。
 
 

 使徒パウロも、ローマ人への手紙の中で政府の役割を教えています。
 
 
ローマ13:4
それは、彼支配者=政府)あなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行なうなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行なう人には怒りをもって報います。
 
 
 このように、政府は国民の益のために、神が立てたしもべなのです。

 このしもべは、悪を行う者を罰する責務を帯びているのです。
 
 また、この世の制度や法律は、政府という神のしもべによって作られました。
 
 ですからペテロは、次のように教えています。
 
 
1ペテロ2:1315 
人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、また、悪を行なう者を罰し、善を行なう者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。というのは、善を行なって、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。
 
 
 つまり、法律は国民に益を与え、悪を行なう者を罰するために存在しているのです。
 
 ですから、クリスチャンも必要であれば法に訴えることができるのです。
 
 この結論は、残りの質問にも答えると思います。
 
また、クリスチャンの敵への愛や赦しの教義を悪用され、つけこまれるのはどのようにして防げますか?それともつけこまれるままでいなければならないのでしょうか?
 
 様々な法や制度を運用すれば良い、というのが答えになると思います。
 
 ただし、何でもかんでも法に訴えるのではなく、相手の行為の悪さや、受けた被害の程度にもよると思います。
 
 おわり

質問者さんへの応答 前半

 
 今回のご質問は以下のとおりです。 
 
隣人を愛せ 敵を愛せとありますが、隣人はノンクリスチャンの悪人、敵は自分に危害を加える犯罪者をも含むのですか?そもそも愛するとはどういうことなのでしょうか? 迫害する者のために祈れとありますが、予定説が正しいならば何を祈るのですか? 人を赦せとありますが、赦すべきなのは同じクリスチャンであり、相手が本当に悔い改めている場合ですか? 赦しの内容は個人的な怒りや憎しみ、復讐心を取り除くことですか? 相手を訴えるのもやめなければならないのですか? また、クリスチャンの敵への愛や赦しの教義を悪用され、つけこまれるのはどのようにして防げますか?それともつけこまれるままでいなければならないのでしょうか?
 
 
 まずは、次の部分についてお答えします。
 
隣人を愛せ 敵を愛せとありますが、隣人はノンクリスチャンの悪人、敵は自分に危害を加える犯罪者をも含むのですか?
 
 
 こういった疑問を持たれる方には、次の本をお勧めします。
 
 コーリー・テン・ブーム著「わたしの隠れ場
 
 
 彼女の体験に関しましては、河野ハレのブログから引用させていただきます。

彼女はヒットラーナチスによって、家族と共に死の強制収容所に送られました。

想像を絶する残忍行為がなされる中で、食事もろくに与えられず、多くの人々が病気と飢えで死んでいきました。

家族のうち生き残ったのは、ただコーリーだけでした。

戦後、彼女は著名な執筆家・講演者となり、愛の神が生きて働かれることについて、世界各国で証します。

しかし、心の奥底では、あの残忍なナチに対しては、どうしても赦すことができませんでした。

 コーリー・テンブームがいつものように講演会で話し終わったその時です。

収容所で人々にひどい虐待を加えていたその男がコーリーの方に向かってきました。

過去の場面が次々に彼女の脳裏によみがえってきました。

大きな部屋の頭上をこうこうと照らすライト、部屋の真中に積み上げられたドレスや靴の山、裸でこの男の前を歩かされた屈辱感、、、、、、、場所はラベンズブルック強制収容所

そして今、コーリーに近づいてくるその男は、そこでも特に残忍な兵士でした。

その彼がコーリーの前に立ち、『自分が犯した多くの罪を悔い改めてクリスチャンになりました。

どうか、私を赦してください』と握手を求めて手を差し出しているのです。

 しかし、コーリーは、、、、そこに立ったまま、彼を赦すことができませんでした。

「赦さなければいけない!

それは分かっていました。

神が赦してくださる前提条件として、自分を傷つけた人を赦さなければならないのです。

エス様は次のように言われました。

「あなたが人を赦さないなら、あなたの父もあなたを赦しません」(マタイ615

 しかし、彼女は冷たく心を閉ざして、彼の前に立ちすくんでいました。

「イエス様、助けてください!」

 彼女は黙って祈りました。

 そして、彼女はぎこちなく無感動に、彼の手に自分の手を出しました。

 その瞬間、信じがたいことが起きました。

 電流がコーリーの肩から腕を走り、握手した二人の手に流れたのです。

 いやしの炎がコーリーの全身を駆け巡り、目に涙があふれてきました。

「兄弟、私はあなたを赦します!」

 コーリーは叫んでいました。

「心の底から、、、、」と。

 かつての強制収容所の捕虜コーリーとナチの兵士の二人は、長い間しっかりと手を握り合っていました。

 彼女は言います。

「これまで、これほどまでに強烈な神の愛を体験したことはありません。これは私の愛ではなく、神の愛そのものでした」。



聖書箇所の解説
 
 質問者さんのコメントの背景となっている聖書箇所は、マタイ5章です。
 
 この箇所をごく手短に説明しようと思います。
 
 
マタイ5:43~45
『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。
 
 
 この文脈を見ますと、イエスさまが言うところの「敵」という存在を限定する条件がないことがわかります。
 
 45節に「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる」とあります。
 
 太陽や雨といった自然の恵みを指して、神学者は「一般恩恵」あるいは「一般恩寵」などと呼びます。
 
 一般恩寵を限定する条件がないのと同じように、「敵」を限定する条件もありません。
 
 クリスチャンであろうと未信者であろうと、善人であろうと悪人であろうと、(天の父のように)区別をつけずに愛することがイエスさまの教えです。
 
 その良き事例が、先に挙げたコーリー・テン・ブーンの体験に現れていると思います。
 
 
そもそも愛するとはどういうことなのでしょうか?
 
 イエスさまや天の父が質問者さんにしてくださったことを思い出すなら、愛することがどのようなことかわかるのではないでしょうか。
 
 私たちは、神やイエスさまに何の良いこともしませんでした。
 
 しかし、私たちが神やイエスさまを知る遥か前に、神は主の十字架で私たちの罪を贖ってくださいました。
 
 つまり、無条件の贖いです。
 
 この十字架の中に、私たちが見本とすべき愛の姿があると思います。
 
 イエスさまは、次のように言われました。 
 
 
ヨハネ15:12
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。
 
 
 主の十字架こそ、「わたしがあなたがたを愛した」の部分を体現した行為だと思います。
 
 次の13節には、このように書かれているからです。
 
 
ヨハネ15:13
人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
 
 
 つまり、イエスさまにとって、自分を十字架につけたローマ兵や弟子たちを含め、人類史上に存在するすべての人間が「友」であるということです。
 
 イエスさまは、すべての人のためにいのちを捨られたからです。
 
 
迫害する者のために祈れとありますが、予定説が正しいならば何を祈るのですか?
 
 また、イエスさまは、「迫害する者のために祈りなさい」という言葉も十字架で実践されました。
 
 
ルカ23:34
そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」
 
 
 これは、イエスさまが十字架に架けられたときに語られた祈りの言葉です。
 
 この祈りの「彼ら」に含まれているのは、ローマ兵だけではありません。
 
 その場には存在しなかった私たち全員も含まれています。
 
 十字架のイエスさまを模範にしたのが、ステパノです。
 
 
使徒7:59~60 
こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。「主イエスよ。私の霊をお受けください。」
そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。
 
 
 これらの手本を見れば、敵のために何を祈るべきかわかると思います。
 
 つづく

質問者さんへの応答・続編 その3


 
 今回のご質問は以下のとおりです。
 
 救いに選ばれていない者が、私が貴方にした質問のような悩みをすることもあるのでしょうか?
 
 まったくないとは言えません。
 
 しかし、自分が救いに選ばれているか否かと悩む未信者は少ないと思います。
 
 特に日本では。
 
 なぜかと言いますと、信じることが救いの条件であることを示す聖句が聖書には数多く書かれているからです。
 
 
それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。
 
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
 
使徒16:31
ふたりは、「主イエス信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。
 
ローマ10:9
なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
 
 
 これらの聖句は、人の意思で信じることが救いの条件であることを示しています。
 
 意思を働かせるのは自分自身ですから、信じるか否かを決めるのも自分自身です。
 
 これらの聖句からは、選ばれた者が救われるという概念は見出せません。
 
 しかし、まったくの未信者ではなく、求道者のような方が教会などで選びによる救いの知識を得て、悩むことはあるかもしれません。
 
 改革派や長老派の教会では選びによる救いの教理が強調される可能性がありますから、求道者の方はそういった話を聞くことになるのではないかと思います。

 中には、自分は神に選ばれているだろうかと悩む人がいるかもしれません。
 
 もし読者の方の中で、そういう実話をご存知の方がおられましたらコメントしていただけると感謝です。
 

最後のご質問無条件的選びというのは神がサイコロを振って選民を決めるのに近いものなのでしょうか?
 
 
 それは違うと思います。
 
 以下に理由を示します。
 

エペソ1:5・新改訳 
神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。
 
エペソ1:4・新共同訳 
天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。
 
 
 上記で「愛をもって/愛して」と訳されているのは、「エン アガペー」というフレーズです。
 
  原文ではこのフレーズが4節と5節の境目にあるため、新改訳のように5節の一部として訳す場合もあれば、新共同訳のように4節の一部として訳すこともあります。
 
 いずれにしても、神が私たちを選んだ動機が愛であることに変わりはありません。
 
 私たちが選ばれたことはサイコロのように偶然の結果ではなく、愛による選びです。
 
 ただし、私たちが神に愛され、選ばれた理由(要因)は不明です。
 
 言い換えると、私たちの側に愛される理由があった訳ではないということです。
 
                * * *
 
 サイコロを振って決めることは偶然だと言いましたが、箴言によれば偶然ではありません。
 
 
箴言16:33
くじは、ひざに投げられるが、そのすべての決定は、主から来る。
 
箴言16:33・口語訳 
人はくじをひく、しかし事を定めるのは全く主のことである。
 
 
「くじ」と訳されたヘブル語ゴラルは、投げるくじです。
 
 ですから、サイコロの使い方と似ていると思います。
 
 しかし聖書は、ゴラルの結果は神による決定であると教えています。
 
 つまり、神の前に偶然はないということでしょう。
 
 だとすれば、私たちが救いに選ばれたことも偶然ではないのです。
 
 神の意思のうちには、何らかの必然があったのでしょう。
 
 しかしそれは、私たちには絶対にわかりません。
 
 ただひたすら、恵みによって選ばれたとしか言いようがありません。

 使徒パウロも、テモテにそのように教えました。
 

2テモテ1:9
神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。



 おわり