ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

質問者さんへの応答 番外編

 
赦すとは⚪⚪である という定義は出来ないものなのですか?
 
 赦すの意味をネット検索すると、次のように書かれています。
 
赦すは特に「罪や責任を免除する」ことを意味します。
 
 この定義で良いと思います。

                   * * *
 
使徒の働き1637節のパウロの行動は赦しとは矛盾しませんか?
 
 ローマ市民権の基本的な内容は「十二表法」と呼ばれた成文法でした。その十二表法の第一表は訴訟手続きで、内容は次のとおりです。
 
*もし(誰かが誰かを)法廷へ呼ぶならば(呼ばれた者は)出廷しなければならない。もし出廷しなければ(訴えた者は)証人を立てなければならない。その上でその者を捕らえることができる。
 
 ところが、使徒16:37にあるパウロの発言から、本来は市民の権利を守るはずの警吏が裁判にかけずにパウロを捕らえて牢に入れたことがわかります。つまり警吏たちは第一表に背いていたのです。
 
使徒16:37
ところが、パウロは、警吏たちにこう言った。「彼らは、ローマ人である私たちを、取り調べもせずに公衆の前でむち打ち、牢に入れてしまいました。それなのに今になって、ひそかに私たちを送り出そうとするのですか。とんでもない。彼ら自身で出向いて来て、私たちを連れ出すべきです。」
 
 悪いのは警吏のほうですから、パウロの主張は至極当然です。
 
 
旧約聖書では聖絶以外にも敵を家族、民族ごと滅ぼしたり、復讐を神が命じたりしていますが、それにはどのような訳があったのでしょうか?
 

 以下のサイトを見ますと、米国で著名な神学者のジョン・パイパーが答えているので彼の答えを要約します。
 

そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」
 

 パイパー氏はヨブ記の箇所に基づいて、すべての人の命は神のものだから、たとい神が人の命を取り去ってもそれは正しいことだと彼は説明しています。
 
 生かされているとが恵みなのだということです。
 
 
 
 こちらは南部バプテスト神学校による動画ですが、やはりパイパー氏と同じような説明をしています。
 
140
神が女性や子供を殺すことは倫理的に正しいのです。
 
230
我々が完全な形で理解しないとしても、神は正しいのです。我々が神は不正だと言うなら、我々は自分の知識を過剰評価しているのです。しかし実際はどうかと言うと、我々はすべての事を知っているわけではありません。義という立場にいるのは神だけです。だから神は、そういった裁きを下すことができるのです。
 
 
ゴット・クエスチョンは、次のように説明しています。
 
これらの神の命令の中で、多分最も難しい部分は、神が子供たちの死さえも命令されたということでしょう。神はなぜ、無垢な(罪のない)子供たちの死を命令されたのでしょう? (1) 子供には罪がないのではない。(無垢ではない)(詩編51:5;58:3) (2) これらの子供たちは成人して、悪の宗教を信じ、親の習慣をするようになるだろう。 (3) 彼らの命を子供の時に取ることで、神は彼らが天国に行けるようにされた。私たちは子供はみな死んだら神の恵みと憐れみによって天国に入れてもらえると固く信じます。(2サムエル12:22-23;マルコ10:14-15;マタイ18:2-4)

さて、この答えは、すべての問題を完全に取り扱ってはいません。神の道が理解できなくても、私たちは神に信頼することに焦点を合わせるべきです。それから、神がすべての事柄を永遠の観点から見ておられるということ、そして神の道は私たちの道よりも高いということも覚えておかなければならないのです。神は正義であり、義であり、聖なる、愛のあるお方、憐れみ深く恵み深いお方なのです。神の性質がどのように共に働くかは、私たちにはミステリーです。しかし、それは神が聖書が宣言しているお方ではないという意味ではありません。
 
おわり