御心かどうかを判断する方法について
●外的導き
神の倫理的御心に関しては、客観的な基準もあります。私たちの内側におられる御霊の霊感によって書かれた聖書こそ、神の倫理的御心を表す客観的な基準です(競謄皀藤魁В隠供法しかし聖書は単なる正典以上のものです。
聖書は、筆記者たちによって「神のことば」と呼ばれている存在を内包しています。すなわちイエス・キリストです。彼こそは生ける神のことばです。彼こそはロゴスであり、神の御声です。聖書は神のことばを内包していると同時に、キリストのご人格を表しています(ヨハネ5:39)。ですから聖書とは、生ける御言葉であるキリストが、文字として書かれたものと言えるのです。
新約聖書には、「みことばの奉仕(働き)」という表現が出てきます(使徒6:4)。こ「みことばの奉仕」とは、その奉仕の中で神のことばが語られていること、あるいは教えられていることを表しています(使徒18:11、汽謄毅押В隠魁▲悒孱隠魁В掘法それはまた「使徒たちの教え」とも呼ばれています(使徒2:42)。彼らが教えたのは、人格としてのキリストでした。
聖書は、神の倫理的御心を証しています。旧約聖書は、キリストにおいて成就した神の意志を記したものです。四福音書は、神のいのちが、いかにしてナザレのイエスの生涯に表れたかの記録です。使徒の働きは、神のいのちが、いかにして使徒たちや初期の教会に表れたかの記録です。そして新約聖書の各書簡は、危機の中にあった諸教会や個人を通して、いかにしてキリストの人格が表れたかの記録です。すべては、今あなたの中におられるのと同じ御霊によって霊感を受けたものです。この御霊の働きこそ、パウロの手紙が「聖書」と呼ばれている根拠なのです(競撻謄蹌魁В隠機腺隠供法
神の倫理的御心がこんにち私たちに啓かれているのは、この「みことばの奉仕」によります。そしてその倫理的御心は、イエス・キリストにおいて受肉しました。ヘブル4:12が、神のことばは生きていて、力があり、内なる思いやはかりごとを見分けると言っているのはこのためです。神のことばは、新生した内なる人から来るものと、堕落した旧い性質から来るものとを見分けさせます(「たましいと霊の分かれ目さえも刺し通す」とあるとおりです)。
この「みことばの働き」は、神のみこころを知る上で欠くことのできないものです。その理由は次の通りです。みことばは私たちの思いを変革し、内住のキリストを感じ取るための霊的敏感さを引き上げるからです。また、みことばは霊であり、いのちであり、霊の糧でもあります(ヨハネ6:63)。みことばによって、私たちは、主がどのような原則で働かれるのかに精通することもできます。なぜなら地上で生きておられたイエスと、私たちの内側で生きておられるイエスの間には、何一つ違いはないからです。それは、天におられるイエスについてもまた然りです。どこにいても、イエスは同じイエスだからです。
言い換えると、あなたの中にある主のいのち~それは神の倫理的御心の主観的な導き手なのです~が、聖書に書かれていることと相反することは決してありません。聖書に書かれているキリストの啓示と矛盾することはありません。常にそれと調和しているのです。
昔のことですが、「預言者」と言われている人物に付き従っていた女性に出会ったことがあります。この「預言者」は、とても優れた知識のことばの賜物や予告預言、またいやしの賜物を持っていました。その女性は既婚者でしたが、預言者は、彼女が御心ではない男性と結婚してしまったという神の示しを彼女に告げました。預言者は、彼女はご主人と離婚すべきだと言いました。(しかし法的にではなく、「神の前で」そうするように言いました。)そして自分と結婚するように言ったのです。(しかし法的にではなく、「神の前で」そうするようにと。)女性は預言者の言葉を信じ、その通りにしました。
さて、彼は「預言者」でした。彼の働きには、しるしと不思議が伴いました。彼にその示しを与えたのは神です。内住の御霊が彼にそう示しました。あなたは彼の言うことを信じますか。もし「いいえ」と答えるのでしたら、あなたの答えが正しいかどうかは、どうしてわかるのでしょうか。神がそのようなことは言わなかったと、どうしてわかりますか。
それは二つの理由でわかります。第一に、イエス・キリストのいのちがあなたの内にあるので、神はそのようなことは語らないとわかります。なぜでしょう。そのような示しは、愛の性質に反するからです。彼女の夫は、このことのために言葉に言い表せない苦しみを味わいました。もしあなたが霊的な直感を感じることができるなら、その預言者の「神の示し」はキリストから来たものではないとわかるはずです。なぜならキリストは愛だからです。そのような示しは、痛みと無秩序と深い悲しみしかもたらしません。
第二に、聖書がそのような行いを戒めているからです。イエスが地上にいたときに表された神のいのちの記録が、そのようなことを責めているからです。霊であり、いのちであるイエスの教えが、そのようなことを戒めているからです。ペテロが「聖書」と呼んでいる、タルソのパウロの手紙がそのようなことを禁じているからです。
ポイントを押さえましょう。神の倫理的御心に関する判断は、内なる聖霊の証しと、外的な聖書の教えの相乗効果によって行います。この原則は決して忘れてはなりません。
加えて、聖書は、神の究極の御心(または神の永遠の御心)も表しています。それはパウロが「神のご計画の全体」と呼んでいるものです(使徒20:27)。ギリシャ語では、「ご計画」に当たる単語は「目的」という意味を持っています。
神の永遠の目的、つまり、神の中心的な目標、を知ることは、大型の方位磁石に例えることができます。それは常に、主の御心が向いている方向を指し示しているのです。それはキリスト者の生き方の参考書です。神の倫理的御心は、神の永遠の目的と常に調和しているからです。
エペソ人への手紙が、新約聖書の他の手紙に優って、神のみこころについて多く述べているのは偶然ではありません(エペソ1:1、5、9、11、同5:17、同6:6)。エペソ人への手紙を貫いているテーマは、神の永遠の目的だからです。それを理解することは、私たちが歩むべき方向性を指し示すことにもなるのです。
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神の倫理的御心に関しては、客観的な基準もあります。私たちの内側におられる御霊の霊感によって書かれた聖書こそ、神の倫理的御心を表す客観的な基準です(競謄皀藤魁В隠供法しかし聖書は単なる正典以上のものです。
聖書は、筆記者たちによって「神のことば」と呼ばれている存在を内包しています。すなわちイエス・キリストです。彼こそは生ける神のことばです。彼こそはロゴスであり、神の御声です。聖書は神のことばを内包していると同時に、キリストのご人格を表しています(ヨハネ5:39)。ですから聖書とは、生ける御言葉であるキリストが、文字として書かれたものと言えるのです。
新約聖書には、「みことばの奉仕(働き)」という表現が出てきます(使徒6:4)。こ「みことばの奉仕」とは、その奉仕の中で神のことばが語られていること、あるいは教えられていることを表しています(使徒18:11、汽謄毅押В隠魁▲悒孱隠魁В掘法それはまた「使徒たちの教え」とも呼ばれています(使徒2:42)。彼らが教えたのは、人格としてのキリストでした。
聖書は、神の倫理的御心を証しています。旧約聖書は、キリストにおいて成就した神の意志を記したものです。四福音書は、神のいのちが、いかにしてナザレのイエスの生涯に表れたかの記録です。使徒の働きは、神のいのちが、いかにして使徒たちや初期の教会に表れたかの記録です。そして新約聖書の各書簡は、危機の中にあった諸教会や個人を通して、いかにしてキリストの人格が表れたかの記録です。すべては、今あなたの中におられるのと同じ御霊によって霊感を受けたものです。この御霊の働きこそ、パウロの手紙が「聖書」と呼ばれている根拠なのです(競撻謄蹌魁В隠機腺隠供法
神の倫理的御心がこんにち私たちに啓かれているのは、この「みことばの奉仕」によります。そしてその倫理的御心は、イエス・キリストにおいて受肉しました。ヘブル4:12が、神のことばは生きていて、力があり、内なる思いやはかりごとを見分けると言っているのはこのためです。神のことばは、新生した内なる人から来るものと、堕落した旧い性質から来るものとを見分けさせます(「たましいと霊の分かれ目さえも刺し通す」とあるとおりです)。
この「みことばの働き」は、神のみこころを知る上で欠くことのできないものです。その理由は次の通りです。みことばは私たちの思いを変革し、内住のキリストを感じ取るための霊的敏感さを引き上げるからです。また、みことばは霊であり、いのちであり、霊の糧でもあります(ヨハネ6:63)。みことばによって、私たちは、主がどのような原則で働かれるのかに精通することもできます。なぜなら地上で生きておられたイエスと、私たちの内側で生きておられるイエスの間には、何一つ違いはないからです。それは、天におられるイエスについてもまた然りです。どこにいても、イエスは同じイエスだからです。
言い換えると、あなたの中にある主のいのち~それは神の倫理的御心の主観的な導き手なのです~が、聖書に書かれていることと相反することは決してありません。聖書に書かれているキリストの啓示と矛盾することはありません。常にそれと調和しているのです。
昔のことですが、「預言者」と言われている人物に付き従っていた女性に出会ったことがあります。この「預言者」は、とても優れた知識のことばの賜物や予告預言、またいやしの賜物を持っていました。その女性は既婚者でしたが、預言者は、彼女が御心ではない男性と結婚してしまったという神の示しを彼女に告げました。預言者は、彼女はご主人と離婚すべきだと言いました。(しかし法的にではなく、「神の前で」そうするように言いました。)そして自分と結婚するように言ったのです。(しかし法的にではなく、「神の前で」そうするようにと。)女性は預言者の言葉を信じ、その通りにしました。
さて、彼は「預言者」でした。彼の働きには、しるしと不思議が伴いました。彼にその示しを与えたのは神です。内住の御霊が彼にそう示しました。あなたは彼の言うことを信じますか。もし「いいえ」と答えるのでしたら、あなたの答えが正しいかどうかは、どうしてわかるのでしょうか。神がそのようなことは言わなかったと、どうしてわかりますか。
それは二つの理由でわかります。第一に、イエス・キリストのいのちがあなたの内にあるので、神はそのようなことは語らないとわかります。なぜでしょう。そのような示しは、愛の性質に反するからです。彼女の夫は、このことのために言葉に言い表せない苦しみを味わいました。もしあなたが霊的な直感を感じることができるなら、その預言者の「神の示し」はキリストから来たものではないとわかるはずです。なぜならキリストは愛だからです。そのような示しは、痛みと無秩序と深い悲しみしかもたらしません。
第二に、聖書がそのような行いを戒めているからです。イエスが地上にいたときに表された神のいのちの記録が、そのようなことを責めているからです。霊であり、いのちであるイエスの教えが、そのようなことを戒めているからです。ペテロが「聖書」と呼んでいる、タルソのパウロの手紙がそのようなことを禁じているからです。
ポイントを押さえましょう。神の倫理的御心に関する判断は、内なる聖霊の証しと、外的な聖書の教えの相乗効果によって行います。この原則は決して忘れてはなりません。
加えて、聖書は、神の究極の御心(または神の永遠の御心)も表しています。それはパウロが「神のご計画の全体」と呼んでいるものです(使徒20:27)。ギリシャ語では、「ご計画」に当たる単語は「目的」という意味を持っています。
神の永遠の目的、つまり、神の中心的な目標、を知ることは、大型の方位磁石に例えることができます。それは常に、主の御心が向いている方向を指し示しているのです。それはキリスト者の生き方の参考書です。神の倫理的御心は、神の永遠の目的と常に調和しているからです。
エペソ人への手紙が、新約聖書の他の手紙に優って、神のみこころについて多く述べているのは偶然ではありません(エペソ1:1、5、9、11、同5:17、同6:6)。エペソ人への手紙を貫いているテーマは、神の永遠の目的だからです。それを理解することは、私たちが歩むべき方向性を指し示すことにもなるのです。
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