2017-03-01から1ヶ月間の記事一覧
患難前携挙説は、1830年代にジョン・ネルソン・ダービーというアイルランド人の聖書教師によって広められました。 1テサロニケ4:17で「引き上げられ」と訳されているハルパゾー(力づくで取り去る)というギリシャ語が、 ラテン語聖書でrapioと訳されてい…
質問者さんから次のような質問がありました。 これに答えるために、「産みの苦しみ」という言葉の使われ方を説明します。 それから、第一テサロニケ5:3で、「人々が『無事だ、安全だ』と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産み…
前回投稿した「患難期に教会は地上に存在するのか?」を読まれた方から、以下のようなコメントをいただきました。 また、「クリスチャンも神の裁きを通過する」という考え方は、「キリストの福音によって神の怒りから免れた」という大原則から外れています…
質問者さんから以下のようなご質問をいただきました。応答していきたいと思いますが、その前に質問者さんご本人にお願いがあります。 もし私の記事を読むことによって、質問者さんの携挙に関する立場が変わり、それによって過去に体験された苦痛に耐えがたく…
質問者さんの2番目の質問は以下のとおりです。 ②マタイ24:36~44に書いてあることは、携挙を表しており、大患難時代の後期に起こるとは考えにくい ノアの日のように、人々が食べたり飲んだり、通常の日常生活が送れるのは、患難時代が始まる前までだと思いま…
過去記事「患難前携挙説は思い込みで構築されたのでは?」を読まれた方からご質問を複数いただきました。どれも興味深い質問なので、記事でお答えしていきたいと思います。 それに当たり、この記事に使う用語について、簡単に定義させてください。 再臨につ…
この箇所から、試練の中に置かれたときの励ましを受けたいと思います。 マルコ1:12~13・新共同訳 それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。 イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが…
過去記事「聖霊のバプテスマ」に関する私見では、 「聖霊のバプテスマ」の実質は、聖霊の満たしだと述べました。 この記事では、さらに説明を付け加えたいと思います。 マルコ1:8(岩波翻訳委員会訳) 私はお前たちに水で洗礼を施した。しかし彼こそは、お…
この記事は、私の呟きです。 目新しいことはまったく書いていませんので、お気軽にスルーしてください。 マタイ24章と2テサロニケ2章の酷似という記事を先日書きましたが、 そこに書かれていることへの反論として、 患難前携挙説に立つ学者が次のように反論…
患難後携挙説が、死者の復活と携挙をどのように関連づけているかをご紹介します。 黙示録20:4~6 また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行なう権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をは…
Three Views on the Rapture(P194~P195)を参考に、 マタイ24章のオリーブ山の説教と、 テサロニケ人への手紙1と2の再臨の描写が酷似していることを記事にします。 マタイ24章/主イエス 出来事 2テサロニケ/パウロ 24:5 惑わし 2:2~3前半 24:5、…
そもそも、なぜ携挙と再臨は区別されるようになったのでしょうか。 私が参考にしているThree Views on the Rapture(P80~P81)によると、 患難前携挙説が携挙と再臨を別の出来事として区別する理由は大きく6つあります。 この記事では、これらの理由が本…
黙示録3:10は、患難前携挙説(以降、患難前説)の鍵となる箇所の一つです。 患難前説を支持する方々は、おおむね次のように解釈します。 (2) ヨハネの黙示録3章10節 「あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者た…
当ブログの筆者は、必ずしも患難前携挙説(以降、患難前説)を否定しているわけではありません。 しかし過去記事で述べたように、知力を尽くして主を愛することには「批判的な思考」を用いることも含まれます。 そのため、少し前から患難前説を「批判的な思…
イエスさまは、「終わりの日」にクリスチャンを例外なく蘇らせると約束しています。 患難前携挙説では、信者の復活は携挙と同時に起こりますから、患難期の直前です。 しかし旧約聖書(イザヤ2:2)に書かれている「終わりの日」は、 メシアがオリーブ山に…
過去記事「聖霊のバプテスマ」に関する私見を読まれた方から、以下のようなご質問をいただきました。お答えしたいと思います。 聖霊のバプテスマは、「聖霊を受ける」ことだと、某大手の聖霊派教団の教会で教わっていましたが、聖霊のバプテスマが、聖霊の…
患難前携挙説をいったん頭の中から取り払い、同説の主張が正しいかどうか考察します。 マタイ24:40~41 そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。 ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。 便宜上、…
終末論をもう一度学びたくなったので、一気にマタイの福音書の最後に飛びました。 マタイ28:20b 見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。 この箇所を原文で見ると、 マタイは、「私」を意味するエゴーをあえて使っています。 …
ゲッセマネの祈りと主の祈りに、共通している教えについて書きます。 マタイ26:41 誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。 41節で「誘惑」と訳されているのは、ペイラスモスという言葉です。 意味は、①…
「つまずく」というのは、世間一般での意味は単純でわかり易いと思いますが、 聖書の中で使われた場合、具体的にどういう意味なのでしょうか? 基本的なところを抑えましょう。 マタイ26:31 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今…
有名なナルドの香油を注いだ女性の箇所です。 日本語の聖書では、「よいこと」をしたとか、 「りっぱなこと」をしてくれたという訳語ですが、 原文ではもう少し大きな意味を持つ言葉が使われています。 マタイ26:10 なぜ、この女を困らせるのです。わたしに…
マタイ25:31~34 人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山…
私はこれまで、この箇所の意味を間違って理解していましたが、 ギリシャ語の意味を調べることで、イエスさまが言っている意味がわかりました。 マタイ24:40~41 そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。 ふたりの女が臼をひいて…
「忌まわしい」と訳されているウアイをピックアップして、反面教師にします。 マタイ23:13~29 しかし、忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、人々から天の御国をさえぎっているのです。自分もはいらず、はいろうとしている人々…
この箇所に「あなたがたは先生と呼ばれてはいません」と書いてあるので、牧師のことを「〇〇先生」と呼ばないようにしている教会があります。 しかしその教会には、事実上のヒエラルキー(階級制度)があります。 皮肉なことに、イエスさまが禁じているのは…
ギリシャ語の意味をヒントに、霊的リーダーについて学びます。 マタイ23:2~3 こう言われた。「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。 ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。けれども、彼らの行ないをまねて…
この箇所から、いわゆる終焉説が誤りであることを説明します。 1コリント13:8~10 愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言…
申命記6:5の引用ですが、 使われているギリシャ語を調べると、意外な意味も見つかります。 マタイ22:37 『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』 この箇所で「思い」と訳されているのは、(プ)スーヘイという言葉で…
イエスさまは、死者の復活はないとするサドカイ人の見解は間違いだと言っています。 その根拠として、『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』という出エジプト記3:6を引き合いに出しています。 しかしこの言葉が、どうして死者の復活…
その2では、ポストモダン主義的な聖書理解の危険性は、神の真理や神の言葉の権威に人が従うのではなく、人間側の必要や目的に応じて、人が神の言葉を判断してしまうことだと述べました。 自分の好きな読み方、理解の仕方をすることで、聖書の真理を多元的…