【短編】患難前携挙説は思い込みで構築されたのでは?
この記事は、私の呟きです。
目新しいことはまったく書いていませんので、お気軽にスルーしてください。
そこに書かれていることへの反論として、
患難前携挙説に立つ学者が次のように反論しています。
「マタイでは御使いたちが選ばれた人々を集めるが、1テサロニケでは主ご自身が信者たちを集めるのだ。」
この言葉を読んだとき、
この学者さんが思い込みによってこう言っていることに気づきました。
1テサロニケ:16~17
主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
この箇所を読めばわかりますが、
該当部分には「ご自身(が)天から下って来られます」と書かれているのであって、
「ご自身が…信者を集めます」とは書かれていません。
反論した学者は、そのように思い込んでしまっているのです。
学者でさえも、思い込みから抜け出せないという事実を見ます。
こういう超基本的な間違いが判明してしまうと、
患難前説そのものが思い込みの産物なのではないか、という疑いすら湧いてきます。
私は完全にその説を否定するわけではありませんが、
批判的な思いで学説を検証してみることの重要性を改めて思わされます。
おわり