ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

「聖霊のバプテスマ」に関する私見 パート2 マルコ1:8


聖霊バプテスマ」の実質は、聖霊の満たしだと述べました。
 
 この記事では、さらに説明を付け加えたいと思います。  
 
 
マルコ18(岩波翻訳委員会訳)
私はお前たちに水で洗礼を施した。しかし彼こそは、お前たちに聖霊によって洗礼をほどこすだろう。
 
ατς  δὲ  βαπτσει μς    ἐν  πνεματι γίῳ.
 彼は しかし 洗礼を授ける あなた方に によって    聖霊
        (浸す)  
 
 
 この箇所は、メシアが私たちを聖霊で浸すと教えています。
 
 日本語訳聖書の多くには、「聖霊バプテスマ」という名詞句が使われていますが、
 
 ギリシャ語の新約聖書には、「聖霊バプテスマ」という表現はまったくありません。
 
聖霊によって浸す」と書かれています。
 
 ですから原文を直訳すると、上記の岩波訳のようになります。
 
 まずこの箇所から重要な原則を学び、
 
 そのあと「聖霊バプテスマ」に関する私見を述べたいと思います。  
 
文法的な学び
 
 The Basics of New Testament Syntaxというギリシャ語の文法書によると、
 
「~によって」に相当するen/エンという言葉は、手段を表しています。
 
 また、「浸す」という行為の主体は「彼」、つまりキリストです。
 
 ですから、キリストが聖霊を手段にして人を浸すというのが、この聖句の意味です。
 
 この原則は聖書が教える真理ですから、とても重要です。
 
聖霊による浸し」の行為者はメシア、手段は神の霊です。
 
御霊による浸しと救い
 
1コリント12:13 
なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。
 
  ἐν  νὶ πνεματι  μες πντες 
によって 1つの御霊     私たちは  みな
 
  ες    ν σμα  βαπτσθημεν
 ~ために 1つの 体   浸された/洗礼を授けられた
 
 
 この聖句は、「御霊によるバプテスマ」の箇所です。
 
 御霊によって浸されると、人はキリストの体の一員になると書かれています。
 
 つまり御霊によって浸されると、私たちは救われるのです。

 前回の私見では、聖霊の満たしか起こるとしか述べませんでしたが、

 神の霊による浸しのもう一つの側面として、救いがあるということになります。

 ☆ ☆
 
 この箇所にも「エン」という言葉があります(ブルーの語)。
 
 マルコと同様、エンは手段を示しており、バプテスマの手段となるのは御霊です。
 
 しかし誰がバプテスマを授けるかは、はっきり書かれていません。
 
 ですので、マルコで学んだことを参考にします。
 
 マルコで学んだのは、聖霊で浸すという行為の主体はキリストだということです。
 
「浸された」という受け身形の動詞も、ヒントになります。
 
 キリストによって浸された、と考えればいいわけです。
 
 このように考えると、この箇所におても、
 
 御霊は浸しの手段で、キリストが行為の主体であると言えます。

 この結果に基づき、The Basics of New Testament Syntax著者ウォレス博士は、
 
 神の霊によるバプテスマが2種類あるという聖書解釈は、誤りだと指摘しています。
 
御霊のバプテスマ2種類説
 
 御霊のバプテスマが2種類あるという説について説明します。
 
 聖霊派の中には、
 
 救いの際に受ける「御霊のバプテスマ」(1コリ1213)と、
 
 いわゆる「聖霊バプテスマ」は別のものだという見解があります。
 
 以下に、それを教えているサイトを抄訳します。
 

The Three Baptisms in Scripture 著者:ジョージ・ウッド博士

 
実質的に、聖書の中には3つのバプテスマがある。
 
①御霊によるキリストの体につくバプテスマ。これは改心である(1コリ1213)。
②水のバプテスマ使徒23841)。  
③御霊にあるバプテスマ。これはペンテコステの体験である(使徒24)。
 
改心の場合、改心という行為の主体は御霊である。御霊は私たちをキリストの体の中に配置する。これが改心である。
 
水のバプテスマの場合、行為の主体は牧師である。水のバプテスマは、改心の後に行われる。
 
ペンテコステの体験は使徒の働き2章に書かれており、(聖霊の)バプテスマという行為の主体は牧師でも御霊でもなく、キリストである。
   

 説明の中でウッド博士は、神の霊によるバプテスマは2種類あると教えています。
 
 ①の「御霊によるバプテスマthe baptism by the Spirit」と、
 
  ③の「御霊にあるバプテスマthe baptism in the Spirit」です。
 
 そして博士は、①の御霊によるバプテスマの主体は、御霊だと言っています。
 
 しかし聖書箇所を見ると、手段を表すエンが「1つの御霊」に使われているので、
 
 御霊は手段であって主体ではありません。
 
 ここにウッド博士の説の間違いがあるわけです
 
 ウッド博士の誤りの原因を推測すると、
 
 英語の聖句に使われているbyの意味を誤解した可能性が考えられます。 
 
 For by one Spirit are we all baptized into one body(欽定訳)

 この英語聖句を普通に英語で解釈すると、行為の主体はone Spiritになります。
 
 しかし原語のenの意味は手段ですがら、
 
 英語とギリシャ語の違いがそのまま解釈に反映されることになります。
 
 一方、聖書では、神の霊によるバプテスマの主体は一貫してキリストです。
 
 マルコの聖霊によるバプテスマと、1コリの御霊によるバプテスマは同じもので、
 
 神の霊によるバプテスマは1つだけなのです。  

聖霊の浸しの2つ側面私見
 
 私は、聖霊による浸しには2つの側面があると考えています。
 
 2種類のバプテスマがあるのではなく、一つのバプテスマに2つの側面があるのです。
 
 使徒2:4のように信者聖霊に浸された場合、聖霊の満たしが起こります。
 
 聖霊に満たされると、異言などの聖霊の賜物が現れます。  
 
 一方、使徒1046のように未信者聖霊に浸されると、

 救いと満たしが同時に起こります。
 
 現代の場合、救いだけが起こるケースが多いのですが、
 
 聖霊の働きが強い状況下では救いと満たしが同時に起こり、

 信じた人がいきなり異言で語り出すケースがあります。
 
 私の身近にそういう救われ方をした人がいます(私の家内です)。
 
 要するに聖霊による浸しには、救いと聖霊の満たしの2つの側面があるということです。  
 
エペソの弟子たちのケース
 
 使徒19章のエペソの弟子たちの場合、
 
 最初はヨハネバプテスマしか知りませんでした。
 
 彼らに伝道したのはアポロですが、彼がエペソで伝道を始めたときは、
 
 ヨハネバプテスマしか知りませんでした(使徒182425)。
 
 プリスキラとアクラから教えてもらう前に、
 
 アポロはエペソの人たちに伝道したのだと思います。
 
 それでエペソの弟子たちは完全な福音を聞いていおらず、
 
 聖霊の存在も知らず、イエスの名による洗礼も受けていませんでした。
 
 つまり彼らは、まだ救われていなかったのです。
 
 そこでパウロが必要なことを教え、按手すると、はじめて彼らに聖霊が臨み、
 
 聖霊に浸されて、救いと聖霊の賜物の現れが起きたのだと思います。
 
聖霊を受ける」という表現は、聖霊が注がれて内住することと同じだと思います。
 
 使徒の働きの場合は、聖霊が内住して救われると同時に、
 
 御霊の満たしも起こっているケースが記されているのだと思います。  
 
 そういうわけで、神の霊によるバプテスマは1種類です。
 
 救いと御霊の満たしの2つの効果があり、両方現れるか救いだけが現れるかは、
 
 聖霊の働きの強さや、救われた当人に対する神の計画によるのだと思います。
 
 おわり