「ひとりは取られ、ひとりは残されます」とは? マタイ24:40~41
私はこれまで、この箇所の意味を間違って理解していましたが、
マタイ24:40~41
そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。
ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。
パラは「傍らに、手近に」という意味で、
ランバノーは「(意図的に)受け入れる/連れて行く」という意味です。
ギリシャ語辞典の定義は、
「(個人的な主導権を示して)連れて行く/受け入れる」となっています。
平たく言うと、「一緒に連れて行く」という意味です。
なので、「ひとりは取られ」をより正確に訳すと、
「ひとりは(一緒に)連れて行かれ」となります。
新共同訳はそのように訳しています。
そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。
二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。
新共同訳・マタイ24:40~41
●文脈への適用
これを文脈の中で確認してみましょう。
まずイエスさまは、31節で再臨の予告をしています。
マタイ24:31
人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。
「選びの民」というのは「his elect/彼の選ばれた者たち」のことで、
いわゆる「ユダヤ人」のことではありません。
クリスチャン一般を指しています。
新共同訳はそう訳しています。
人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。新共同訳・マタイ24:31
次にイエスさまは、ノアの洪水を例に挙げて、再臨の起こり方を説明します。
マタイ24:37~39
人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。
洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。
そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。
再臨とノアの洪水の共通点は何かというと、
取り残される人々は、裁かれて滅びることになるという点です。
逆に、ノアやイエスさまと一緒に連れて行かれる人々は、救われます。
●携挙?
ではこの箇所は、いわゆる「携挙」のことを言っているのでしょうか?
それについては、即断しかねます。
患難前携挙説を主張する人たちの中には、
この箇所が携挙を描写していると考える人がいます。
しかし患難後携挙説(無携挙説)を主張する人たちは、
この箇所は再臨の描写で、イエスさまのもとに集められたクリスチャンたちは、
そのままオリーブ山の頂上に一緒に連れて行かれ、
エルサレムから主と共に世界を統治するようになると考えています。
患難後携挙説の場合、
1コリント15:52~53は、第一の復活を描写していると考えられています。
1コリント15:52~53(新共同訳)
最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。
この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。
ちなみに、患難後携挙説(無携挙説)を主張する人たちは、
1コリント15:52の「最後のラッパ」と黙示録の第7のラッパは、
同じものだと考えています。
黙示録11:15~18
第七の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、天に大きな声々が起こって言った。
「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。」
それから、神の御前で自分たちの座に着いている二十四人の長老たちも、地にひれ伏し、神を礼拝して、言った。
「万物の支配者、常にいまし、昔います神である主。あなたが、その偉大な力を働かせて、王となられたことを感謝します。
諸国の民は怒りました。しかし、あなたの御怒りの日が来ました。
死者のさばかれる時、あなたのしもべである預言者たち、聖徒たち、また小さい者も大きい者もすべてあなたの御名を恐れかしこむ者たちに報いの与えられる時、地を滅ぼす者どもの滅ぼされる時です。」
ギリシャ語の観点から言うと、
マタイ24:31のラッパと、1コリント15:52のラッパと、黙示録8:2のラッパは、
終末論は難しいですね。
どの説が正しいのか、即断は困難です(>_<)