「終わりの日」と携挙 ヨハネ6:39、44
イエスさまは、「終わりの日」にクリスチャンを例外なく蘇らせると約束しています。
患難前携挙説では、信者の復活は携挙と同時に起こりますから、患難期の直前です。
しかし旧約聖書(イザヤ2:2)に書かれている「終わりの日」は、
メシアがオリーブ山に再臨する日を指しているとする見解があります。
ですから、もしイエスさまがイザヤ的な意味で「終わりの日」と言っているなら、
患難前説は間違いで、患難後携挙説(無携挙説)が正しいことになります。
この記事では、この点について書きます。
わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。
わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
39節後半 ἀλλ’ ἀναστήσω αὐτὸ [ἐν] τῇ ἐσχάτῃ ἡμέρᾳ.
終わりの 日(単数形)
44節後半 κἀγὼ ἀναστήσω αὐτὸν ἐν τῇ ἐσχάτῃ ἡμέρᾳ.
終わりの 日(単数形)
上記の39節と44節の「終わりの日」というフレーズは、
ですから、特定の一日を指していると思われます。
一方、例えばへブル1:2の「終わりの時」の場合、
「時」の部分がやはりヘメーラですが、こちらは複数形です。
へブル1:2
この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。
ἐπ’ ἐσχάτου τῶν ἡμερῶν τούτων
には 終わりの 日々(複数形)これらの
「時」と訳してあるのは、複数形の場合は一定の期間を意味するからです。
確かにイエスさまは、3年半の公生涯の日々、語り続けていました。
ヨハネ6章の「終わりの日」が特定の一日を指しているなら、
その一日は何の日なのか、これが大きな意味を持っていることになります。
●「終わりの日」はいつのこと?
イザヤ2:2の「終わりの日」は、「キリストの再臨」の日だと説明されています。
イザヤ2:2
終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。
イザヤ書2章2節にある、「【主】の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々が流れて来る」とはどういうことでしょうか。
この地震によってオリーブ山が南北に裂け、中央に、東西に延びる非常に大きな谷ができます。
ゼカリヤ書14章4節にこう記されています。「その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山は、その真ん中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ移り、他の半分は南へ移る。」と。
エルサレム周辺の地形は山地です。この地震の変動でエルサレムはそれが南北に裂かれた北側に位置するようになり、他の山よりも高くなるということです。南の方から見ると、「北の端なるシオンの山」のように見えるということです。
(引用終わり)
ゼカリヤ14:4は、キリストが再臨する光景を描写しています。
イザヤが言っているのと同じ「終わりの日」であるなら、
クリスチャンの復活は大患難時代が終わる日、
つまりキリストの再臨の日だということになります。
●あとがき
イエスさまが、イザヤ的な意味で「終わりの日」と言っていると、
100%断定することはできません。
しかし、もしそうであるなら、患難前説は完全に間違っていることになります。
両説について、さらに比較していきたいと思います。