再臨/携挙の突発性
それに当たり、この記事に使う用語について、簡単に定義させてください。
再臨については、患難前携挙説でも患難後携挙説でも、患難期の最後に起こるという共通の理解があります。この記事でもそのように定義します。
携挙については、いつ起こるかが明確になっていないという前提で記事を書いていきたいと思います。
私は患難前携挙説をまったく否定しているわけではありませんが、同説を支えている聖書解釈に誤りがあることは確かですので、客観的な見方をしていきたいと思っています。
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質問1
1テサロニケ4:16~5:4・新共同訳
すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、4:17 それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。4:18 ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい。
5:1 兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。
5:2 盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。5:3 人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。5:4 しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。
この箇所を読む限り、「盗人が夜やって来るように、主の日は来る」という言葉は、その直前の携挙の箇所を示していると思います。
また、「産みの苦しみ」という言葉は、マタイ24:8と関連しているのではないでしょうか。
ほかにも、マタイ24:36~44、マタイ25:1~13、2ぺトロ3:10で、携挙の時期が「盗人のよう」と表現されています。
大患難時代は、反キリストとイスラエルが平和条約を結んでから7年間なので、患難後携挙説だと携挙の時期が特定できると思います。
また、「産みの苦しみ」という言葉は、マタイ24:8と関連しているのではないでしょうか。
ほかにも、マタイ24:36~44、マタイ25:1~13、2ぺトロ3:10で、携挙の時期が「盗人のよう」と表現されています。
大患難時代は、反キリストとイスラエルが平和条約を結んでから7年間なので、患難後携挙説だと携挙の時期が特定できると思います。
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質問者さんは、患難前説を支持しておられます。その立場から、携挙の突発性・切迫性に関連したご質問です。
患難前説は、携挙が起こることを示す兆候は、事前にはまったくないと考えています。目だった出来事はないときに、突如クリスチャンが携挙されるというのが患難前説の見解です。
それに比べ、患難後説の場合、携挙の前にいろいろな出来事が前兆として起こるので、(患難前説を支持する人から見ると)突発性に欠けることになります。
●私の応答
この突発性というテーマに関しては記事を書きかけていたので、以下にそれを書き添えて、私の考えを述べさせていただきます。
1テサロニケ5:2~3
主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。
上記の箇所の「主の日」というのが、再臨の日を指していることを説明していきます。
「主の日」が再臨の日であるなら、聖書は、再臨も突発的に起こると述べていることになるからです。
まず次の箇所をご覧ください。
1コリント1:7~8
その結果、あなたがたはどんな賜物にも欠けるところがなく、また、熱心に私たちの主イエス・キリストの現われを待っています。主も、あなたがたを、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところのない者として、最後まで堅く保ってくださいます。
1テ5:2の「主の日」をご覧いただくと、1)と番号がふられています。1)を欄外のほうで見ていただくと、上の1コリの箇所が出ています。
ですから1テサ5の箇所は、キリストの再臨は人々(未信者)が「平和だ。安全だ」と言っているときに、「突如として」起こると言っているわけです。
ルカ21:34
あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。
この箇所では、「主の日」ではなく「その日」と言われています。
この「その日」というのは、23節を見るとわかりますが、直前のエルサレムが包囲される日を指しています。
また35節を見ると、「その日」とは「全地の表に住むすべての人に臨む」日でもあります。
つまり「その日」とは再臨の日のことです。これは、ゼカリヤ14章を見るとはっきりします。
ゼカリヤ14:1~4
見よ。主の日が来る。その日、あなたから分捕った物が、あなたの中で分けられる。
14:3 主が出て来られる。決戦の日に戦うように、それらの国々と戦われる。
この箇所では「主の日」と呼ばれています。
ですから「主に日」も「その日」も再臨の日のことです。
このように、ルカの箇所は再臨が「突然」起こると言っているわけです。
ですから聖書の感覚では、再臨は突発的なのです。
パウロもルカも、同じ形容詞と同じ動詞を使って、再臨が突発的であることを表現しています。
こういうわけで、聖書そのものが、再臨は突如として起こるものだと教えています。
患難前説を信奉する方々は、患難前説しか突発性や切迫性を表現できないと言いますが、それには聖書的な根拠がないことになります。
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さらに、質問者さんが述べておられるとおり、1テサ5章の「主の日」は、4:16~17の携挙のことを指しています。
ということは、パウロは、携挙が起こるのは「主の日」であり、再臨と同じ日に起こると言っているわけです。
こういうわけで、いわゆる「携挙」というのは、再臨の一部のことであるとわかります。
恐らく再臨の初動の部分で、信者が集められる部分の描写のことでしょう。
2テサ2:1の「主のみもとに集められる」という表現が、携挙に相当するものだと思います。
そしてそれは、「主が再び来られること」と同じ「主の日」に起こるというのがパウロの言っていることです。