ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

マタイ24:36~44は患難期前の描写?


 質問者さんの2番目の質問は以下のとおりです。
 
マタイ24:3644に書いてあることは、携挙を表しており、大患難時代の後期に起こるとは考えにくい

 ノアの日のように、人々が食べたり飲んだり、通常の日常生活が送れるのは、患難時代が始まる前までだと思います。
 大患難時代が始まったら、戦争や飢饉や自然災害や天変地異で、普通の日常生活を送ることは困難になるのではないでしょうか。
 特に、大患難時代の終わりには、生き残っていられる人の数はどれほどかと思います。
そのような時に、「畑に二人の男がいれば、一人は連れていかれ、もう一人は残される。二人の女が臼を引いていれば、一人は連れていかれ、もう一人は残される」と書いてあるように、生き残っている人数がある程度残っていて、しかも通常の日常生活を送っているとは考えにくいと思います。
 
 
●応答
 
 質問者さんの見解では、マタイ343644は患難期以前を指しているとのことです。
 
 この見解に応答します。
 
①「ノアの日」というのは人類に対する神の裁きを象徴しています。とりわけ主に従わない人々にとっては、滅びを意味する表現です。
 
 ですから患難期前の神の裁きが現れていない時期を例えるために、滅びを暗示する表現を主イエスが使うとは考えにくいと思います。
 
 神の裁きや滅びを意味する表現で例えるべき時期は、大きく見ても患難期全体、厳密な見方をすれば大患難期であるべきです。
 

②また文脈的に見ても、患難期の前とは考えにくい理由があります。
 
 マタイ2415では反キリストの台頭が述べられており、21節では「世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような…ひどい苦難」とあり、
 
 22節には「その日数が少なくされなかったら、ひとりとして救われる者はない」とまで言われるほど厳しい状況が語られています。
 
 これらは大患難期の厳しさを表現していると思いますが、243644は、そのあとに語られています。
 
 ということは、主イエスはこの大患難期の例えとして、ノアの洪水を引き合いに出していると考えるほうが理に叶っています。
 

③また37節や39節で「人の子が来る」と訳されているのは、再臨を意味するパルスィーアという言葉です。
 
 パルスィーアは「王家の訪問」を表現するために使われていた言葉で、ただ来訪するだけでなく、その場に滞在(存在)するという意味があります。
 
 ですからパルスィーアという言葉が聖書で使われる場合、キリストが来臨してそのまま地上に滞在することを意味すると理解すべきです。
 
 そのような意味のあるパルスィーアがマタイ243644に繰り返し使われているので、患難前説で言うところの携挙を表現する箇所としては考えにくいと思います。
 
 以上①~③により、マタイの箇所は患難前携挙説が言うところの携挙の箇所ではなく、地上再臨と患難後携挙説が言うところの携挙を描写している箇所だと思います。
 
 
●応答2
 
 次に、その時代に人々が飲み食いするのは考えにくい、という疑問について述べます。
 
黙示録18:11~14
また、地上の商人たちは彼女のことで泣き悲しみます。もはや彼らの商品を買う者がだれもいないからです。
18:12 商品とは、金、銀、宝石、真珠、麻布、紫布、絹、緋布、香木、さまざまの象牙細工、高価な木や銅や鉄や大理石で造ったあらゆる種類の器具、
18:13 また、肉桂、香料、香、香油、乳香、ぶどう酒、オリーブ油、麦粉、麦、牛、羊、それに馬、車、奴隷、また人のいのちです。
18:14 また、あなたの心の望みである熟したくだものは、あなたから遠ざかってしまい、あらゆるはでな物、はなやかな物は消えうせて、もはや、決してそれらの物を見いだすことができません。
 
 
 上記は黙示録18章です。
 
 そして直後の黙示録1911以降は、地上再臨の描写です。
 
 つまりこの箇所は、大患難期も押し迫った、再臨直前の描写です。
 
 それでも地上の様子を見ると、12節~13節に述べられているような様々な高級品が売買されていることがわかります。 
 
 14節~15節にも、「あらゆるはでな物、はなやかな物」が生活の中で用いられていたことが書かれています。
 
 もう一人の方のコメントでも同様のことが言われているとおり、再臨直前でも贅沢を謳歌するような一面があることがわかります。
 
 ですから人々が飲み食いしているような状況で再臨が来ることは、むしろ黙示録と整合するわけです。
 
 このことからもマタイ243644は、患難前携挙説が言うところの携挙の描写ではなく、地上再臨と患難後携挙説が言うところの携挙を描写している箇所だと思います。