「鏡を通して」ぼんやりと(終焉説の誤り) 1コリント13:8~12
この箇所から、いわゆる終焉説が誤りであることを説明します。
1コリント13:8~10
愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。完全なものが現われたら、不完全なものはすたれます。
新改訳では「預言の賜物」と訳されていますが、原文には「預言」(複数形)としか書かれてません。
この箇所の「預言、異言、知識」は、どれも啓示の賜物です(1コリ12:8~10)。
新改訳は、それをわかり易くするために「~の賜物」を付け加えてくれているのです。
ちなみに他の日本語聖書には、「預言」としか書かれていません。
新共同訳
愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、
口語訳
愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。
異言は使徒の働き2:3で初めて現れますが、これは新しい契約の時代に入ったことを示すための、神からの証拠だったと書かれています。
2回目と3回目は使徒10:48と19:6で、異邦人信者が異言を受けます。
なので1コリント13:10の意味は、新約時代が続く限り、啓示の賜物はすたれないということです。
異言を初めとした聖霊の賜物は、キリストが再臨するまで存続し続け、機能し続けるのです。
この解釈が正しいことは、12節を考えればわかります。
●完全なもの
1コリント13:12
今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。
the perfect state of all things, to be ushered in by the return of
Christ from heaven
万物の完全な状態は、キリストの再臨により導入される
終焉説が説明するように、「完全なもの」というのがキリストの再臨による新しい時代のことではなく、聖書の完成を指しているのだとしたら、
12節の「顔と顔を合わせて(キリストを)見ることになる」という表現の意味が通りません。聖書には顔などないからです。
私たち信者が「顔」を持っているのですから、相手も「顔」を持っている存在でなければ、「顔と顔を合わせる」ことにはなりません。
ですから「完全なもの」というのは聖書のことではなく、再臨以降に到来する新しい時代のことです。
ではなぜ、終焉説のような聖書解釈の誤りが生じるのでしょうか?
●鏡を通して
「鏡にぼんやり…」の「鏡に」の部分には、「~を通して」を意味する前置詞が使われています。
ただし、その前置詞はあくまで手段を意味しているので、「鏡によって」とか「鏡を使って」と訳したほうがいいのかもしれません。
欽定訳はこう訳しています。
For now we see through a glass, darkly; but then face to face:
当時の鏡はブロンズ(青銅)だったため、たとい上質な鏡であってもはっきり映りませんでした。
当時の哲学者の一部は、人間が神を追求しても曖昧にしかわからないことを説明するために、鏡という言葉を使っていました。
パウロもこの箇所で、それと似たのような意味で使っています。
再臨が起きて新しい時代が来るまでは、人間を含め万物が不完全であるため、神や神に関わる真理も、鏡に映して見るように「ぼんやり」としかわからず、「不可解な」部分が残るのです。
ある人たちにとっては、教団教派が山ほどあり、それぞれの中で異なる聖書解釈がなされていることが躓きになっているかもしれませんが、
それは聖書そのものに誤りや矛盾があるからではなく、聖霊の働きが不十分だからでもなく、アダムの罪のゆえに私たちの知性が不完全だからなのです。