ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

再度ヒエラルキーを禁じるイエス マタイ23:8~10

 
 この箇所に「あなたがたは先生と呼ばれてはいません」と書いてあるので、牧師のことを「〇〇先生」と呼ばないようにしている教会があります。
 
 しかしその教会には、事実上のヒエラルキー(階級制度)があります。
 
 皮肉なことに、イエスさまが禁じているのは牧師を「〇〇先生」と呼ぶことではなく、クリスチャンの間にヒエラルキーを作ることです。
 
 
マタイ23:8~10 
しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。
あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。
また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただひとり、キリストだからです。


「先生」と訳されているのは、ラビーいうギリシャ語です。
 
 言うまでもなく、ユダヤ教の教師のことです。

  
「教師」を意味するディダスカロスは、新約聖書の色々な箇所で使われています。
 
 事例として、次の箇所があります。
 
 
ヨハネ3:10 
エスは答えて言われた。「あなたはイスラエル教師でありながら、こういうことがわからないのですか。
 
使徒13:1 
さて、アンテオケには、そこにある教会に、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、国主ヘロデの乳兄弟マナエン、サウロなどという預言者教師がいた。
 
1テモテ2:7 
そのあかしのために、私は宣伝者また使徒に任じられ――私は真実を言っており、うそは言いません。――信仰と真理を異邦人に教える教師とされました。
 
 
 エスさまは、ニコデモを教師として認めていますし、初代教会では教師という霊的な役割がありました。パウロも、自分は教師だと言っています。
 
 ですから聖書は、教師になることや教師と名乗ったり、そう呼ばれること自体を禁じているわけではありません。

 ではイエスさまは、何を問題視しているのでしょうか?


権威の固定化が問題


 当時、ラビたちは、「アバ」とか「パパ」とも呼ばれていました。

 ユダヤ社会において、ラビは人々の尊敬を集め、

 社会的に高い位置を占める地位になっていました(権威の固定化)。 
 
 
だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます(12節)。
 

 イエスさまが禁じているのは、

 霊的なコミュニティーの中で、自分を他の人よりも高い位置に置くことです。

 つまり神の国の人間関係において、序列を作ることを禁じているのです。
 
 そうしてはいけない理由は、あなたがたはみな兄弟だからです(8節)。
 
 
 神の国ではみなが平等で、序列はありません。
 
 もちろん、牧師や教師などの役割には、霊的権威が伴います。
 
 しかし霊的権威は、固定化すべきものではありません。
 
 役割を果たす上で必要なので、その役割を果たすときに(のみ)権威も働くのです。 
 

マルコ1:21~22 
それから、一行はカペナウムにはいった。そしてすぐに、イエス安息日に会堂にはいって教えられた。
人々は、その教えに驚いた。それはイエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。
   

 イエスさまは、神に遣わされた教師として御言葉を教えました。

 そのとき霊的権威も働き、人々はそれを感じ取りました。

 イエスさまは、このとき人々には知られていませんでしたが、

 主にあって役割を果たしたので、権威が働きました。

 このように、真の霊的権威というのは動的なものです。

 それを固定化してしまうと、御心ではないことを語ったり、

 行っているにもかかわらず、権威が独り歩きすることになります。
 
 霊的権威を固定化してしまうと、

 教会の中にヒエラルキーが生じ、カルト化の要因になります。

 霊的権威を固定化してしまわないように注意しましょう。