体験主義 イエスはそれを信頼しない
近年、しるしと不思議を求めたり、もてはやす風潮がクリスチャンの間で広がっています。
また幻を見たとか、イエスに会った、天国や地獄へ行ったなど、霊的体験をすることが流行り、体験をすることがキリスト信仰の醍醐味であるかのような誤解がされています。
この記事では、聖書がそのような姿勢についてどう語っているかを考えます。
●過ぎ越しの祭りでの奇蹟
参考文献:The Gospel According To John by D.A. Carson
ヨハネ2:23~25
また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。
23節には、そのしるしを見て、「多くの人が・・・御名を信じた」とあります。
イエスは、しるしを見て信じた人たちを信頼しませんでした。
なぜでしょうか?
「すべての人を知っておられた」とは、具体的にはどう意味でしょうか?
カーソン(参考文献の著者)は、「奇蹟的なしるしを見て信じた人の信仰は不安定」であり、「彼らの信仰は不純」。「イエスはご機嫌取りにかつがれることはない」と述べています。
●出エジプトの奇蹟
申命記29:2~4
あなたが、自分の目で見たあの大きな試み、それは大きなしるしと不思議であった。
しかし、主は今日に至るまで、あなたがたに、悟る心と、見る目と、聞く耳を、下さらなかった。
聴衆は「自分の目で」「大きなしるしと不思議」を見た人々です。
しかし4節を見てください。
とあります。
民はしるしと不思議をじかに見ましたが、彼らには悟る心がありませんでした。
「悟る」と訳されているヘブル語は「ヤダー」という言葉で、「知る」という意味です。
ですから十の奇蹟と紅海の奇蹟を目の当たりにしたにもかかわらず、人々は「知る心」を持たなかったことがわかります。
神や神の真理を、彼らは知ることができませんでした。
マッキントッシュという聖書注解者は、4節について次のようにコメントしています。
これは異様なほど厳粛です。最も驚嘆すべき奇蹟としるしが、心に触れることなく、目の前を通り過ぎてゆきことがあるかもしれないのです。これらの奇蹟やしるしは、思いや感情に一時的な影響をもたらすかもしれません。しかし良心というものは、神の臨在の光の中に入れられない限り、そして心が御霊の力により直接、真理のもとに連れて来られない限り、恒久的な実を結ぶに至らないのです。
(引用終わり)
このように、しるしと不思議を体験しても、それだけでは霊的成長は起こりません。
主との親密さを深めることもありません。
では、何が霊的成長をもたらすのでしょうか。
●霊的成長の要因
エペソ4:13、15(新共同訳)
ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。
むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。
この箇所にあるとおり、霊的成熟は聖書の真理にふれることによって起こります。
パウロは、一人ひとりのクリスチャンが「奉仕の働き」をする必要があると言っています(12節)。
その奉仕の働きの中で「真理」を語ることにより、霊的に成長すると教えているのです(15節)。
パウロ書簡では、しばしば「(教会の)建て上げ」という表現が使われているのを目にします。
つまりクリスチャンは、聖書の真理を語り、啓発し合うことにって成長するのです。
●まとめ
エペソ4:14を見ると、
「誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教え」とあります。
これはエペソ教会が影響を受けていたにせ教師の働きのことです。
にせ教師はクリスチャンを「誤り」に導こうとします。
彼らの教えは、「風のように変わりやすい教え」です。
そのような教えに「もてあそばれたり、引き回され」てはならないとパウロは教えています。
しるしと不思議を体験しても、キリストに向かって成長することはできません。
聖書の中にある真理に目を向けましょう。
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