ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

第一に使徒、次に預言者?? その2

 前回は聖書の教えから、神の国にはヒエラルキー(階級制度)があってはならないことを理解しました。けれども、教会に霊的権威は必要不可欠であるとも述べました。この記事では、言葉足らずの誤解を生まないために、教会における霊的権威について簡単に触れておきます。
 
イスラエルと教会は違う
 教会の霊的権威に関する誤解は、旧約聖書における権威の解釈を誤ることによって生じる場合があります。特にモーセの権威を正しく解釈せずに教会に適用すると、牧師の権威が強まりすぎることになり、教会のカルト化の要因にもなるので注意しなければなりません。
 
 モーセの権威はイスラエルの民に対するものでしたが、イスラエルは教会とは違い、単なる神の民の集団ではありません。モーセの時代はまだ土地は所有していなかったものの、国家の要素を帯びていたのは明確です。
 
 つまりモーセの権威は、霊的権威であると同時に、国家の指導者に与えらえるような、役職に伴う固定的権威であったのです。ですからモーセが高ぶり、神の命令を超えて杖で岩を叩いてしまっても水は出ました。霊的権威であると同時に国家権力でもあったので、モーセの権威を通して働く神の力は絶大でした。性質の違う権威について書かれている箇所を、教会に適用するのは大きな誤りなのです。
 
●教会における霊的権威の働き方
 新約の教会の霊的権威は、御心を行うときに働きます。御心と一致した用い方をすると、権威の行使に伴って神の力が働くのがわかります。
 
 例えば、御言葉を教える役割の人が会衆の前で御言葉の奉仕をすると、その人が偉大なる神の人であるかのように感じられます。これはその人を通して、神の権威と力が働いているからです。
 
 しかし同じ人物が同じ人々に対して、「今夜のおかずはハンバーグにしなさい」と指導したところで、その言葉に神の権威は働きません。その人には、信徒の個人的生活を統率する役割が与えられていないからです。
 
 新約の教会に働く霊的権威は、教会を建て上げるためのものです。建て上げるというのは、教会の人々を啓蒙したり、霊的な訓練を与えることです(エペソ4:11~13)。
 
 ですから与えられている役割を超えた目的で権威を行使すれば、乱用になります。そしてそれが繰り返されれば、教会のカルト化につながります。
 
 これらのことを踏まえた上で、次回は第一コリント12:28を考察したいと思います。
 

 つづく