ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

マタイ24章と2テサロニケ2章の酷似


 
 Three Views on the RaptureP194P195)を参考に、
 
 マタイ24章のオリーブ山の説教と、
 
 テサロニケ人への手紙1と2の再臨の描写が酷似していることを記事にします。
 
 
マタイ24章/主イエス
出来事
2テサロニケ/パウロ
24:5
惑わし
2:2~3前半
24:5、11、24
偽キリスト、不法の人
2:6~11
24:12
愛が冷える、背教
2:3
24:15
反キリスト神殿へ
2:4
24:21~22
苦難、苦しみ
1:6~10
24:30~31
来臨、天使、雲、ラッパ
1テサ4:16~17
24:30~31
来臨
2テサ2:8
24:31
信者を集める(携挙)
1テサ4:17、2テサ2:1
24:36、42、44、50
思い掛けない時
1テサ5:1~4
24:42~25:13
目を覚ましていなさい
1テサ5:6~8


 
1テサロニケ4:15 (新共同訳)
主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。
 

 上記の箇所にもあるとおり、パウロは、主の来臨について記すに当たり、
 
「主の言葉に基づいて」そうしています。
 
 上の表を見るかぎり、「主の言葉」というのは、
 
 マタイ24章のオリーブ山の説教を指している可能性が十分考えられます。
 
 パウロがテサロニケ人への手紙でマタイ24章と同じ出来事を描写しているのであれば、
 
 患難前携挙説が言うところの「携挙」は、患難期の後半以降に起こることになります。
  
 
「呼び集める」のギリシャ
 
マタイ24:31 
人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める
 
マルコ13:27 
そのとき、人の子は、御使いたちを送り、地の果てから天の果てまで、四方からその選びの民を集めます。
 

 マタイ2431で「呼び集める」と訳されているギリシャ語は、
 
 エピスナゴーといいます。
 
 また、2テサロニケ21の信者が主の身元に「集められること」という部分は、
 
 エピスナゴーの名詞でエピスナゴゲといいます。

 つまり動詞と名詞の違いだけで、同じギリシャ語を使って書かれていることから、

「天の果てから果てまで…選ばれた人たちを呼び集める」や、
 
「地の果てから天の果てまで…選びの民を集める」という表現は、
 
 いわゆる「携挙」を指している可能性が十分に考えられます。


 また、マタイ244041もあります。
 
 過去記事で述べたとおり、新改訳聖書「取る」と訳されているパラランバノーは、

一緒に連れて行くという意味です。
 
 
新共同訳・マタイ24:40~41
そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。
二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。
 
 
 マタイ24章で描写されているのが携挙である場合、どいうことになるかというと、
 
『荒らす憎むべき者』が2415ですでに台頭していますから、
 
 携挙が起こるのは患難期の後半以降ということになります。
 
 
 この点については、2テサロニケ2章からも同じことが言えます。
 
「不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ない」とあり、
 
 携挙が患難期後期以降であることが明確です。
 
 
まとめ
 
 マタイ24章と2テサロニケ2章が同じ出来事を描写しているのなら、
 
 携挙と呼ばれている出来事は、患難期の後期以降に起こります。

 さらに、2テサロニケ2:1の「再び来られること」の部分は、

「再臨」を意味するパルスィーアというギリシャ語です。

 このことから、マタイ2431が再臨の一部分を描写している可能性も高くなります。
 
 もしそうである場合、再臨は患難期の一番最後に起きますから、

 クリスチャンは患難期全体を地上で過ごすことになります。
 

 患難前携挙説。
 
 鵜呑みにしないほうがよさそうですね。