携挙と再臨が区別される理由
そもそも、なぜ携挙と再臨は区別されるようになったのでしょうか。
患難前携挙説が携挙と再臨を別の出来事として区別する理由は大きく6つあります。
この記事では、これらの理由が本当に妥当かどうかを考えてみたいと思います。
理由1
再臨を描写している箇所には、再臨に先立つしるしや出来事が書かれている(例:マタイ24:4~28、黙示録19:11~21)が、携挙を描写している「いかなる」箇所にも、携挙に先立つ出来事は書かれていない。
応答1
携挙を描写している箇所に、先立つ出来事が書かれていないというのは間違いです。
2テサロニケは、テサロニケ教会の人たちが1テサロニケの手紙の内容を誤解したので、書かれたものです。
2テサロニケの2章を見ると、携挙と考えられている出来事の前には①背教が起こり、②不法の人が現れると書かれています。
ですからパウロは、携挙と考えられている出来事に先立ち、背教と不法の人の出現がると言っているのです。
2テサロニケ1:7
苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現われるときに起こります。
上記の箇所で、「主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現われる」と書かれているのは再臨のことです。
「安息」というのは、再臨によって迫害から解放されることを意味しています。
「安息」と再臨の間に携挙があるとは示唆されておらず、両者は直結するものとして描写されています。
この点を考えると、携挙と考えられているものは再臨の一部である可能性が十分考えられます。
理由2
再臨に関する「すべての」箇所は、患難期と裁きが背景になっている。ゼカリヤ14:1~2には、再臨直前にエルサレムが包囲され、町は取られ、家々は略奪され、婦女は犯されると書かれている。…しかし携挙の箇所には、試練の描写は見られない。
応答2
一見すると、携挙と思われる箇所、例えば1テサロニケ4:16~17の前には、困難な出来事が書かれていないように思えます。
しかし下記の1テサロニケ2:14や同3:3~4を見ると、テサロニケ教会がすでに迫害の中に置かれていたことがわかります。
1テサロニケ2:14
1テサロニケ3:3~4
このような苦難の中にあっても、動揺する者がひとりもないようにするためでした。あなたがた自身が知っているとおり、私たちはこのような苦難に会うように定められているのです。あなたがたのところにいたとき、私たちは苦難に会うようになる、と前もって言っておいたのですが、それが、ご承知のとおり、はたして事実となったのです。
そう考えるなら、携挙の箇所と再臨の箇所の間には、理由2にあるような相違はないことになります。
理由3
再臨の箇所には、携挙の描写がない。また携挙の場合、信者たちは空中で主と会うが(1テサロニケ4:17)、再臨の場合は地上で会う(セカリヤ14:3)。
応答3
患難前説は携挙と再臨が別の出来事だという前提で聖書の箇所を読んでいますが、逆に携挙が再臨の一部分(初期段階)だという前提で考えるとどうなるでしょう。
その直後にオリーブ山に行って地上に降り立つと考えるなら、それは相違ではなくなります。
マタイ24:31
人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。
マルコ13:27
そのとき、人の子は、御使いたちを送り、地の果てから天の果てまで、四方からその選びの民を集めます。
福音書にある「天の果てから…集める」という表現は、空中に引き上げられている状態にある信者を集めることの描写かもしれません。
また、ゼカリヤ書には、信者と主が「地上で会う」とは書かれていません。主がオリーブ山に降り立つことが書かれているだけです。
ですから再臨の箇所は、携挙の詳しい描写を省いているだけかもしれません。説明を省いてるだけなら、再臨と携挙が別の出来事であることの根拠にはなりません。
理由4
再臨の箇所には、生きている信者が集められるという教えがない。
応答4
再臨の際の信者の状態については、以下のマタイとルカの箇所が答えになります。
マタイ24:50
そのしもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。
ルカ21:34
あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。
再臨は、突如として起こります。
普通に生活しているときに突如として再臨が起こるなら、たとい信者が生きているという描写がなくても、生きていることが当たり前だと考えられます。
実際、マタイやルカの箇所を私たちが読むとき、自分が生きているときに主が来られるかもしれないと考えます。
生きているときに再臨が起こり、御使いを使って主が私たちを集めるなら、私たちは生きた状態で主に会うことになるはずです。
ですから、これは相違とは言えないと思います。
理由5
再臨の箇所には、聖徒の蘇りに関する描写がない。
応答5
古代のユダヤ教では、終末における肉体の復活を教えていました。パリサイ人はそれを信じていました。
パウロがコリント教会やテサロニケ教会など、異邦人への書簡の中で聖徒の復活を記したのは、異邦人にとっては終末の復活は新しいことだったからでしょう。
理由6
再臨の際には、地球に様々な変化が起きるようだ。例えばゼカリヤ14:4には、オリーブ山が裂けて大きな谷ができることが書かれている。…その一方で、携挙の箇所には地形の変化の描写はない。
応答6
この地形の変化は、エルサレム周辺だけのことなので、テサロニケ教会やコリント教会など、異邦人への書簡で省略するのがむしろ当然だと思います。
●あとがき
患難前説が携挙と再臨とには違いがあるとしていますが、別の出来事と断言できるほど十分な根拠にはなっていません。
携挙と再臨が別の出来事であることを前提にしているから、相違があるかのように解釈できるだけかもしれません。