神の怒りと患難後携挙説 1テサロニケ5章
前回投稿した「患難期に教会は地上に存在するのか?」を読まれた方から、以下のようなコメントをいただきました。
また、「クリスチャンも神の裁きを通過する」という考え方は、「キリストの福音によって神の怒りから免れた」という大原則から外れています。
これは、救いについての福音の内容を揺るがすものです。
このご質問の内容は重要ですので応答します。
●パウロが意図した神の怒りの定義
1テサロニケ5:2~10
主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。
5:3 人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。
5:4 しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。
5:5 あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。
5:6 ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。
5:7 眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うからです。
5:8 しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。
5:10 主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。
上記の箇所をよく読むと、
9節にある「御怒り」について、パウロが2節ですでにその意味を暗示していることがわかります。
パウロは、2節の「主の日」に御怒りが現れると言っているのです。
というのは、キリストの再臨は「主の日」に起こるからです。
キリストの再臨は、神を信じなかった不信者にとって滅びに直結する出来事です。
しかしクリスチャンは罪赦され、救われていますから、再臨が起きても滅びとは無関係です。
「御怒りに会うようにお定めになったのではなく」というのは、再臨による滅びに会わずに済むという意味です。
ですから患難後携挙説は、救いの教理や神の怒りと何ら矛盾しません。