ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

クリスチャンとポストモダニズム その3

 
 その2では、ポストモダン主義的な聖書理解の危険性は、神の真理や神の言葉の権威に人が従うのではなく、人間側の必要や目的に応じて、人が神の言葉を判断してしまうことだと述べました。
 
 自分の好きな読み方、理解の仕方をすることで、聖書の真理を多元的で相対的なものと理解するようになってしまう危険性があると。
 
 そのポストモダン主義的な主張の、最たる事例を取り上げます。以下は、青野氏の著書「どう読むか、聖書」の一節です。
 
 
なぜならば、「聖書」は人間の書いた他の文書とは次元のちがう神聖不可侵なものなどでは全くなく、むしろ全く逆にその原典そのものすらも存在せず、ただ人間の、相対的なわざ以外の何ものでもない文献学的な作業によって再構成されているものだという事実は、聖書それ自身が告げている教説に深く規定された現実を示しているからである。すなわち、人間は決して絶対的な正しさを持つことはできず、ゆるされなくては生きていけない相対的な存在なのだ、という教説によって規定された現実である。(p.257)

引用元:「本の覚書                   (強調はブログ主)
 
 
 青野氏は新約聖書学者でありながら、聖書の絶対性を真っ向から否定していることがおわかりいただけると思います。
 
 伝道の逆を行なっていると言ってもよいでしょう。つまり、聖書を信じてはいけないと教えているのです。
 
 実際、「本の覚書」のブログ主様は、青野氏の著書を引用した後で次のように述べています。
 

この不完全な人間に託された神の言葉は、不完全な人間によって不完全に記述され、不完全にまとめられて、不完全な聖書を形成し、不完全に伝えられて、不完全に翻訳される。だから、決して盲信は許されない。主体的に批判的に聖書を読むことが必要なゆえんである。
   

「主体的に…聖書を読むことが必要」という概念は、まさにポストモダニズム的な見解です。(実際は逆で、聖書は客観的に理解しなければなりません)
 
 そして、このような思想を持つ青野氏の著書を推薦してるメディアが、福音主義を標榜するクリスチャン・トゥデイです。
 
神学書を読む(9)で、コラムニストである青木保憲氏が、青野太潮氏の「パウロ 十字架の使徒」という著書を紹介していま
 
 福音主義のメディアであるはずのCTが、福音主義的な聖書理解を否定するポストモダニズムを広めていると言ってもよいでしょう。
 
 私たちは、身近にあるポストモダニズムの危険性に注意していかなければなりません。
 
 
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