ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

ウエスレー神学と聖書

「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」ヨハネ1:9

みなさん、お久しぶりですm(_  _)m
 
恐らく単発になりますが、記事を書きましたので掲載します。

●ジョン・ウエスレーの神学

を信奉する方々は、上記の聖句を次のように解釈しているそうです。

イエス・キリストの来臨は、人類に光をもたらした。

その結果、すべての人は、福音を受け入れるか拒絶するかを選択することができるようになった。

この『光』とは、アダムの罪によって人の心を支配するようになった『やみ』を打ち破る恵み(先行的恩寵)である。

この『光』は救いを保証するものではないが、救いを選び取ることができる可能性をすべての人にもたらした。」

●現代の福音宣教

は、実にウエスレーと同じ聖書理解の上に成り立っていると思います。

こんにちの多くの牧師、伝道者、宣教師たちは、ウエスレーと同じ考え方をしているはずです。

ゆえに彼らの教えを受けてきた多くのクリスチャンたちも、おのずと同じ聖書理解に立っていることでしょう。

キャンパス・クルセード出身の私自身も、長年にわたりこのように信じてきました。

●しかし

聖書というものは正直言って正しい解釈をするがなかなか難しいもので、現代人の私たちにはそう容易く理解できる代物ではないようです。

自分が信じてきた聖書理解が崩されるとき、一旦、自分の思考の中に動揺や混乱が生じます。

しかしそれを通過して初めて、本来の聖書理解が得られます。

たとえ一時の間、混乱や動揺を感じようとも、間違った土台はなくなったほうが良いのです。

●では

ヨハネ1:9をどのように理解すべきなのでしょうか。

以前から述べていますが、すべての聖句は文脈の中で理解しなければなりません。

これは聖書が、教科書のように体系的にまとめられた文章ではなく、手紙や物語形式で書かれた文書だからです。

エスレーの解釈では、9節の「照らす」という言葉は、人間の内面に恵みをもたらすという意味で捉えられています。

しかし10節以降を見ていくと、「照らす」という言葉は、人間の霊的実情を暴露し、

エスを信じる人と信じない人の相違を明確にするという意味であることがわかります。

個別に見てみますと、10節、「世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。」

11節、「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」

12節、「・・・受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、・・・」

13節、「この人々は、・・・人の意欲によってでもなく・・・ただ、神によって生まれたのである。」

このように10節以降では、イエスを信じる者と信じない者のコントラストが述べられています。

この人間にコントラストをもたらすことが「すべての人を照らす」ことであり、「まことの光」の働きなのです。

同じ結論が、ヨハネ3:19~21からも出てきます。
 
19節、「人々は光よりもやみを愛した。」
 
20節、「悪いことをする者は光を憎み、・・・光のほうに来ない。」
 
21節、「真理を行う者は、光のほうに来る。」
 
9節の「照らす」という言葉と、19節の「さばき」という言葉が同じ役割を果たしていることがわかります。

ヨハネは、イエスを信じる人と信じない人が存在することを前提にしており、
 
エスの来臨には、その2者を分別する働きがあることを教えています。
 
1:9に戻りますと、
 
「すべての人を照らす」という霊的行為は、イエスを信じる人と信じない人を差別化するという意味であって、

エスレーが考えたような、先行的恩寵をもたらすことではないことがわかります。

自然界の光が物質を識別するのに役立つのと同じように、

エスの来臨は、羊と山羊を分別し(ヨハネ10:26~28)、
 
神の子どもと悪魔の子どもを分別するのです(ヨハネ8:44)。

●まとめ

私たちは聖書理解を見直すと共に、こんにちの福音宣教のあり方を見直す必要があります。

もし私たちがウエスレーと同じ考えを持っているならば、それを修正する必要があります。

万民がイエスを信じる可能性を持っている、という考えは誤りです。

伝道集会で、単に多くの決心者が出せればいいという考えは聖書的ではありません。

Ⅱテモテ2:10でパウロが述べているように、
 
神に選ばれた人々が救いを受けられるために、私たちは福音を伝えていく必要があるのです。