ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

「御言葉預言」は聖書的か? その2


 
 前回は聖書以外の観点で「御言葉預言」を考えましたが、この記事では聖書的にどうかという観点で考えます。
 
 
4)聖書の教え

 以下の箇所を尺度に、「御言葉預言」が聖書的な方法かどうかを判断したいと思います。

ローマ122
あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。(新共同訳)
 
この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。(新改訳)
 
参考文献:
The Epistle of the Romans (Douglas Moo)
Romans (Thomas Schreiner)
 
①世/アイオン 
「時代」という意味の言葉で、直訳は「この時代」。マタイ1232などでイエス「この世と次に来る世」と対比させて述べている邪悪で罪深い「この世」のこと。
 
 クリスチャンは肉体的には地上でこの時代を過ごしていても、内的には「次に来る世」のいのちを持っているので、「この世」に乗じた考え方をするのではなく、「次に来る世」を基準にした新しい考え方、価値観、倫理観に立つよう勧められている。
 
②「自分を変えていただきなさい
 新改訳聖書の訳は誤訳に近い。原典では受動態で書かれているので、「変えられなさい」が直訳。つまり(神に)「変えていただきなさい」という意味。新共同訳はそう訳している。
 
 参考文献(ムー)によれば、「ローマ76の御霊によって考える」という意味合いを持っており、「生涯を通して自分の考え方を神の考え方に近づけていくプロセスであり、一夜になるものではない」と述べられています。
 
④心(思い) 
 この言葉のギリシャ語は知覚や理解を司る場所を指しており、知性とか理性の意味。英語の聖書は全部「mind」と訳しており、「心」よりも「思い」と訳すべき。
 
 参考文献(ムー)によれば、「思いという言葉に対して、パウロ理性と良識のニュアンスを持たせている」とあります。
 
⑤わきまえ知る 
「試す」「試験をする」「詳しく調べる」「証明する」などの意味の言葉で、「(何かを)試してみて、本当にそうかどうかを認識する」という意味。「善いこと」「完全なこと」「神の御心」は、そのような慎重さがなければ知ることはできない。
 
 ESVという英語聖書は、次のように訳しています。

Do not be conformed to this world, but be transformed by the renewal of your mind, that by testing you may discern what is the will of God, what is good and acceptable and perfect.

この世と一致してはなりません。思いの一新により変えていただきなさい。試験することにより、何が神の意志であり、何が善であって受け入れられ、完全であるかをあなたがたが識別するためです。
 
聖書の判断方法(ローマ122のまとめ)
 私たちは御霊がもたらした新しいいのちに従って、「次に来る世」的な考え方をすべきだということです。また理性や知性、良識を駆使しつつ、生涯をかけて思いを神の考え方に近づけていく必要があるということです。そして、本当にそうかどうか確かめながら判断するときに、神の御心がわかってくる、というようなことをパウロは説いています。
 
 
「神のかたち」としての判断
 
 神を愛するための神学講座Ⅱ:http://d.hatena.ne.jp/koumiboxy/20151022/1445496439
 
 上記は、にほんブログ村にある、小海キリスト教会の牧師先生のブログで、重厚かつ深遠な神学講座です。クリスチャンなら誰でも一度は読んでおいたほうがいい内容が書かれています。
 
 先生は記事の中で、「神のかたち」について以下のよう述べています。
 
人は本来、「神のかたち」において造られた尊い存在です。私たちは、先に「神のかたち」とは、まずコロサイ書115節から三位一体の第二位格である御子を意味していることであると学びました。次に、コロサイ書とエペソ書から、「神のかたち」とは知と義と聖つまり、知性と道徳性と宗教であることを学びました。さらに、「神のかたち」とは三位一体の神のように互いに愛する存在であるということを先に学びました。
                         (引用終わり、強調はダビデ
 

 「神のかたち」として御心の判断をすることは、

 「御子らしさ」+「知と義と聖と愛」によって御心が何かを判断する

 ということになり、

 「神のかたち」に近づくに比例して正確になる、と言えそうです。

 つまり、御心を知ることは方法論だけでは無理なことで、

 神をどれほど深く知っているか、

 自分の中で「神のかたち」がどの程度まで回復されているか、

 が関係してくるということです。 
 
 
●まとめ
 
 聖書によれば、御心を知ることは必ずしも方法論だけでは無理なことで、生涯をかけて「神のかたち」が回復されていくことに大きなポイントがある、ということです。

 「御言葉預言」は公式のような方法論であるという点で、聖書的とは言えません。

 その方法の部分にも占い的な要素が見られ、非聖書的と言えます。

 構造的に見ても、わざわざ精度を落とすやり方で、とてもお薦めできません。
 
 「御言葉預言」を実践している人たちには、ぜひ考え直していただきたいところです。
 

●追記
「御言葉預言」の考案者は「アットホームチャーチ」の牧師夫人である砂川和美さんのようです。参考サイト:https://ameblo.jp/athomechurch/entry-12189767508.html
 
 聖書を占いのような形で使うことは間違っています。霊的な混乱をきたす恐れがありますので、「御言葉預言」の実践は止めましょう。
 
 
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