同性愛に関する聖書の教え その2
伝道者スティーブン・ベネットによる同性愛についての聖書の教えをさらに見ていきます。
旧約聖書では同性愛は死をもって罰せられましたが、新しい契約の恵みのもとではどうなのでしょうか?
生活や儀式に関する旧約聖書の戒めは、新しい契約の恵みのもとでは変更されました。しかし倫理に関する戒めの多くについては、キリストご自身が福音書の中で肯定しています。その一例がイエスによる姦淫に関する解説です。そしてマタイ5:17~18では、次のように述べています。
わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。
ローマ1:26~27は、性的不品行と自己崇拝は、大変な結果を招くと教えています。
こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行なうようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。
この箇所は同性愛に関して語っており、神が肯定する性的関係は、異性同士の夫婦間におけるものであることを教えています。
一部の同性愛者たちはロマ書の箇所を曲解し、自分たちにとっての「自然な用」は同性愛だから、異性を相手にすると罪になると論じます。しかし「自然な用」というのは自分の気持ちによって定義するのではなく、神の創造の秩序(創世記2:21~25、マタイ19:4~6)によって定義しなければなりません。
同性愛は他の罪よりも重いのでしょうか?
レビ記18:22や20:13は、同性愛は忌嫌うべきものだと述べています。ウエブスター辞典は、忌嫌うべきものを「嫌気または憎悪に値するもの」と定義しています。
ひとりの男性とひとりの女性が契約を結んで一体になることは、キリストの福音の型を表しています。キリストは「花婿」と言われており、教会(信者の総体)は「花嫁」と言われています。この二者の一体化は、「小羊の婚宴」によって永遠のものとなります。しかし同性愛は、この福音の型を限りなく歪めます。
これが意味するのは、同性愛が他の罪よりも重いということでしょうか?もちろん違います。すべての罪が嫌気または憎悪に値するものです。性質上、罪というものは、神の性質の逆を表します。次の箇所では、同性愛が他の罪と同列に表現されています。どの罪も神の国に入ることを妨げます。
第一コリント6:9~10
あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。
第一テモテ1:9~10
すなわち、律法は、正しい人のためにあるのではなく、律法を無視する不従順な者、不敬虔な罪人、汚らわしい俗物、父や母を殺す者、人を殺す者、不品行な者、男色をする者、人を誘拐する者、うそをつく者、偽証をする者などのため、またそのほか健全な教えにそむく事のためにあるのです。
他人の罪は、自分の罪よりも酷いと考えるべきではありません。すべての罪が、私たちを創造主から引き離すからです。キリストが死なれたのは、私たちを罪から贖い、神との個人的な関係を持たせるためです。
つづく
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