性同一性障害者の救いの証 その3のC
ペータの証の最終回です。
それから少しして、私は巡回説教者と出逢いました。説教者は、別の街に引っ越して、彼の教会で新しい人生を始めてみないかと言いました。失うものなどなかった私はその話に同意し、ほどなく7000キロも離れた、この国の反対側に行きました。
そこでの最初の一年間、私はほとんど毎晩泣きながら過ごしました。心は混乱で満ちていました。私は教会に溶け込もうと懸命に努力し、聖書の学びに没頭し、徹底して主に自分を捧げました。
私が40歳のとき、7年前に知り合った素晴らしい女性と結婚しました。悲しいことに、私たちの結婚生活ははじめから上手く行きませんでした。彼女が求めていたのは、自分を気遣ってくれる男性でしたが、私はそのような男性にはなれませんでした。
その後も7年間、私たちは結婚生活を維持するために苦労しました。カウンセリングを受けることについて何度も相談し合いましたが、私にはカウンセリングが役立つとは思えませんでした。
最終的に私たちはランドマーク・フォーラムという集会に出るよう薦められ、その二日目、私は、問題は結婚生活にあったのではなく、自分自身にあったことに気づきました。私は別の誰かになろうとして偽っていたのです。本当の自分を押し殺していました。そのことを霊的にはっきりと示され、その問題と向き合わざるを得なくなりました。
妻は完全に取り乱し、教会の友人たちも私の言うことを信じませんでした。友人の中には、私が今していることを受け入れることができない人も何人かいます。内側では以前と同じ私ですが、それが(理解に)難しいことはわかります。
クリスチャンの中には性転換に猛反対する人たちもいますが、その人たちが、私と同じ経験をすることは決してありません。私はこのような状態を、好き好んで選んでいるわけではありません。ただ単に、これがありのままの私なのです。
私がずっと願ってきたのは、正常になることでした。いま私は、これが私にとっての正常な状態だと思っています。なぜなら今は自由ですし、満足しているからです。今の自分を愛していますし、今は自分らしく振舞うことができます。本当の自分や過去のことを隠す必要もありません。そして私は今も主を愛し、主も私を愛してくださっています。
人間は往々にして恐れによって行動しがちです。それも事実無根の恐れによってです。私たちはそういう恐れに基づいて偏見を持ち、その偏見のゆえに苦しい思いをします。恐れのない人生とは、どのようなものでしょうか。
聖書は、天においては男でも女でもなくなると言っています。私はそうなることを待ち望んでいます。また聖書は、主が私たちを知っているのと同じように、私たちも(すべてを)知るようになると言っています。
つまり天国では、隠されているものなど何ひとつないということです。ですから、ありのままの私でいても、天国では幸せだということです。そして誰もが、ありのままの私を知ることになるのです。
私の名前はペータといいます。私は、性転換で苦しんでいる48歳の女性です。
おわり
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