ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

闘うパン屋さん


 ポリティカル・コレクトネスに立脚し、非聖書的な声明を発表する教団はどこの国にもありますが、下の写真に写っているパン屋さん「シュラーズ・ベーカリー」(オハイオ州スプリングフィールド市)は、自分たちの信仰姿勢を堂々と表明し、ソーシャルメディア上で有名になりました。 
 

イメージ 1
引用元:FOX45 Dayton
 
 店頭の表示には次のように書かれています。
 
「注意 この店は政治的妥当性に欠けております。当店はメリー・クリスマス、ゴッド・ブレス・アメリカと申し上げております。国旗を掲げ、軍人や警察官、消防士に感謝を表明しております。もしそれがお客様のご気分を害する場合、当店から立ち去られることをお勧めしております。わたくしどもは、神に信頼しております。」


 メディアの取材動画には、この信仰姿勢を支持するため、片道500キロ離れたところからドーナツを買いに来た老夫婦もいました。
 
 
●信仰の闘い
 
 ポリティカル・コレクトネスは、言葉遣いにおいて政治的な偏見や不公平をなくすために生まれた概念ですが、これが行き過ぎると信教の自由とぶつかることになります。
 
 最近アメリカで問題になっているのがまさにこの問題で、ポリティカル・コレクトネスの乱用によるキリスト教信仰への迫害とも言える動きです。
 
 クリスチャンの歯医者さんがBGMで賛美を流していたら、スタッフから裁判で訴えられたという実例もあります。
 
 そういうレベルになると、生きた信仰の表明としての言動や行動が、ポリティカル・コレクトネスの名のもとに抑圧されることになります。しかし私たちは神の言葉に立ち、信仰的な妥協をすることがないようにしなければなりません。
 
 
●信教の自由と聖書
 
 聖書はキリスト教信仰に限らず、宗教一般を信じる自由を許容しています。クリスチャンサイトを引用して、信教の自由の聖書的根拠を学びたいと思います。
 
引用元:「信教の自由は聖書的か?」http://www.gotquestions.org/freedom-of-religion.html
 
 
 信教の自由は、次の理由で聖書的です。
 
 マタイ191623には、裕福な若い指導者がイエスのもとに来て質問した記述があります。短いやり取りの後で、若者は「悲しんで去って行った」と書かれてます(22節)。
 
 重要な点は、イエスが彼をそのまま去らせていることです。主は、彼に信仰を無理強いしませんでした。聖書は「(主イエスを)信じなさい」と命じてはいるものの、決して強要はしていません。
 
 マタイ2337には、主がエルサレムの子らをご自分のもとに集めようとしたと書かれています。しかし「お前たちは応じなかった」とイエスは言っています(新共同訳)。
 
 もし主が、ご自分を選ぶ自由や拒絶する自由を人に与えておられるなら、私たちも同じようにすべきです。
 
 また聖書は、人が神のかたちに創造されたと記しています(創世記126)。
 
 神のかたちの要素の一つは、意志を持っているということ、つまり選択する能力があることです。神は、人間がその意志によって選択することを尊重しておられ、将来について決断する自由を与えています。
 
 
創世記139
全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう
 
ヨシュア2415
もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える。
 
 
 このように神は、たとえ人の選択が間違いだとしても、選択の自由を許しています。神がそうしているのなら、私たちもそうするべきです。
 
 
●まとめ
 
 ポリティカル・コレクトネスには良い側面もありますが、こと信仰の自由という点においては、乱用や行き過ぎの域になる場合があります。
 
 しかし神は、人に信教の自由を与えています。
 
 天の価値観と世の価値観がぶつかるとき、私たちは主の教えを貫きましょう。


 私はなおも、それに慰めを得、容赦ない苦痛の中でも、こおどりして喜ぼう。
 私は聖なる方のことばを拒んだことがないからだ。 ヨブ記610
 
 
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