ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

万人祭司2 メルキゼデク

第5章 メルキゼデク

聖書中、祭司に関して最初に言及している箇所は、創世記の14章18節から24節までです。それはサレムの王であるメルキゼデクの話です。このアブラハムとメルキゼデクのストーリーの背後には、いろいろな意味が隠されています。それでは神が、そのストーリーの中にどのようなメッセージを隠しておられるのか、見てみることにしましょう。

メルキゼデク・・・新しい祭司のひな形

まず初めに、旧約聖書は、新約聖書における霊的真理を映し出す象徴やひな形で満ちていることを知らなければなりません。メルキゼデクとアブラハムの物語もその一つです。その物語は、大祭司であるイエス・キリストについて語っています。また万人祭司制を通しての教会の働きや、教会における人間関係について語っています。メルキゼデクは、キリストにある新約的祭司制のひな形です。重要な点は、メルキゼデクが、モーセの律法に基づいたアロン的レビ的祭司制よりも前に存在していた祭司であるということです。ヘブル7章は、メルキゼデクがレビの秩序に従った祭司ではないことをはっきりと述べています。なぜならレビは、メルキゼデクの時代にはまだ存在していなかったからです!メルキゼデクの祭司職は、律法の下にはありませんでした。なぜならそれは、聖霊によるよみがえりの力に基づいた、永遠の祭司職だからです。ですからメルキゼデクは、神の永遠の目的に関する御心の全般を代表しているのです。

メルキゼデクに関しては、理解しておくべき興味深い点が幾つかあります。

●メルキゼデクは王であり祭司

メルキゼデクは、旧約聖書中でただひとり、王であると同時に祭司である人物として知られています。もちろんこのことは、キリストが王の王であり、大祭司であることを表しています。それと共に、教会が王であり祭司であることも表しています。

「また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。」黙示録1:6

神は私たちを、王また祭司として召してくださっています。私たちに与えられている王としての立場とは何かといえば、私たちがキリストの権威によって統べ治めるようになるということです。また私たちの祭司の立場がどういうものかといえば、キリストにあって奉仕をするということです。私たちは、今のところ「見習い中の王」です。御言葉は、もし私たちが勝利するなら、キリストと共に治めるようになるとはっきり語っています。

「勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。」黙示録3:21

私たちの祭司としての働きと王としての立場は、永遠なるものです。神は私たちを、宇宙の共同統治者とされるのです。また私たちは、祭司として神と人とに仕えることにもなります。読者のみなさんはどうかわかりませんが、私はこのことを考えると実にわくわくするのです!神は永遠の奉仕に向けて、私たちを整えたいと願っているのですから。そのために私たちは今、オン・ザ・ジョブ・トレーニング(実地訓練)受けているのです!

●メルキゼデクはサレムの王

サレムとは、エルサレムのいにしえの呼び名です。エルサレムとは、ヘブル語で平和を意味します。ですからメルキゼデクは、平和の王でした。どこかで聞き覚えがありませんか。そうです。これは「平和の君」であるキリストのひな形なのです。このことは、私たちがキリストにあって安息することを表しています。主イエスは言われました。「わたしはあなたがたのたましいに安息を与えます」と。

エルサレムは聖なる街です。またダビデの町であり、聖書の多くの箇所で、神の都市として表現されています。黙示録では21章で、新しい都市、神ご自身によって建てられた新しいエルサレムとして描かれています(ヘブル11:10)。そしてもはや太陽も月も必要ありません。なぜなら主なる神と小羊がその光となるからです。黙示録21:10には、新しいエルサレムが、神のみもと、天から出て、くだってくると書かれています。この箇所は天についてではなく、天から「出て」、地上に下りてくる都市について語っています。そして9節では、この都市が何であるかが書かれています。それは花嫁です。小羊の妻です。小羊がキリストでなくて、いったい誰でしょう。キリストの花嫁そして妻とは、いったい誰でしょうか。教会ではありませんか!私たちは、これが真実であることを知っています。なぜならパウロが、キリストと教会は夫と妻であると、エペソ5章ではっきり述べているからです。

●メルキゼデクはアブラハムにパンとぶどう酒をもたらす

このパンとぶどう酒は、私たちが主の晩餐あるいは聖餐と呼んでいる、新しい契約の食事を指しています。メルキゼデクはキリストのひな形です。そして私たち(教会)はみな、信仰によってアブラハムの子孫です(ローマ4:16)。ですからこのことは、キリストが教会と共に契約の食事をすることを表しているのです。

メルキゼデクはアブラハムを祝福しました。創世記14:19~20にそのことが書かれています。そして新約聖書では、同じような祝福が、教会である私たちに注がれているのを見ることができます。

「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。」
エペソ1:3~6

神はキリストにあって、すでに私たちに「すべての」霊的祝福を与えてくださっているのです!神はキリストのいのちを私たちの霊の内に住わせることによって、天に至る道を与えてくださいました。万人祭司制を実践するとき、私たちはそれらの祝福が、自分や兄弟姉妹たちの内にあることに気付きます。神がそれらの祝福を決して隠すことなく、私たちにすでに与えてくださっていたことに気付くのです。というのは、それらの祝福は、キリストのからだの各器官の中に隠されているからです。神は私たちに、たくさんの祝福を与えてくださっています。そしてそれらの祝福は、ひとり一人の信者の中に宿っているのです。問題は何かといえば、諸教会における誤った風習と誤った霊的構造のゆえに、それらの祝福がおもてに出されていないということです。開かれた心で聖書を学ぶなら、私たちは、キリストが神の栄光を反射する、大きなプリズムのような役目をしていることに気付くでしょう。そのプリズムに神の光が反射すると、その光は様々な色に分かれて、美しい虹として映し出されるのです!しかし現時点においては、まだ1色か2色しか見えていません。しかし神は、その虹を完全なものに回復しつつあります。

●メルキゼデク的祭司制はレビ的祭司制と完全に異なる

ヘブル7:11~28を見ると、メルキゼデクの秩序はアロンの秩序とまったく異なっていることがわかります。アロンの祭司職を支えている力は律法です。しかしメルキゼデクの祭司制の力は朽ちることのない命です。メルキゼデクの秩序が、キリストと教会による新約的祭司制の、旧約におけるひな形であることは明らかです。この祭司制の土台は何かといえば、イエス・キリストの復活の力です!律法でもなければ伝統でもなく、規則でもなければ掟でもありません。ガラテヤ人への手紙でパウロが教えているところの、御霊のいのちに土台を置いているのです。肉の力では、この祭司の役割は果たせません。御霊の促しに従うことによって私たちが神に服従するとき、はじめてその役割を実現することができるのです。私たちが祭司としてどのように機能すべきかは、聖霊の力によって奉仕をすることでしか学ぶことができません。私たちは、神のいのちを内に宿しています。ですから、そのいのちによって生きるということを学ぶ必要があるのです。こんにち未成熟なクリスチャンがあふれているのは、それができていないからです。アメリカでは、教会の99%が何かのショーを行なっていると言っても過言ではありません。聴衆がいて、役者がいるのです。会衆は聴衆であって、神と兄弟姉妹とに仕える万人祭司とは言えません。ほとんどの奉仕を牧師がやってしまっているために、聖徒たちは御霊の声に聞き従うことをいつまでたっても学ぶことができないのです。なぜなら、牧師が彼らの代わりに奉仕をしてくれるので、彼らにはその必要性が感じられないのです!

●メルキゼデクの祭司制は永遠

「あなたは、とこしえに、メルキゼデクの秩序による祭司である。」ヘブル7:17(英訳)

この箇所でヘブル書の執筆者は、詩篇110:4を引用しています。それは、キリストと教会の祭司制がメルキゼデクによって予表されたものであり、永遠なる祭司職であることを示すためです。ヘブル7章3節は、メルキゼデクには、父親の記録も母親の記録もないことを述べています。またメルキゼデクが、いつまでも祭司としてとどまると述べています。レビ系の祭司職は一時的だったのです。しかしメルキゼデクによる祭司制は永遠であり、神の御心をまっとうするのです。神の目的を果たすことができるのは、永遠なる祭司制だけです。御父の目的は万物をキリストで満たすことなので、父なる神は愛する御子のいのちに基づく祭司制を必要としておられるのです。メルキゼデクが実際の人間であったのか、それとも受肉以前のイエス・キリストであったのかはわかりません。しかしそれは、重要ではありません。重要なのは、キリストと教会とによる新約的祭司制が、アロン的レビ的祭司職の型にならったものではないということです。レビ的祭司職に関する学びから多くの洞察を得ることができるのは確かであり、それもまた、キリストにある新しい祭司職のひな形と予表です。しかしヘブル7章に書かれているように、祭司職が大きな変化を遂げたことを私たちは悟らなければなりません。神がもともと意図していた祭司制を完全に理解するためには、イスラエルの祭司制と国家としてのイスラエルとがどのような関係にあったかを振り返る必要があります。


ご面倒でなければ、ここをクリック。
    ↓↓↓↓↓
https://philosophy.blogmura.com/christian/ にほんブログ村 キリスト教