ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

服従と従順(後半)

ところが驚いたことに、神が、ある信者に、別の信者に対して振るうための権威を与えているという教えは、聖書の中にはないのです。マタイ20:25~26やルカ22:25~26にある主イエスの言葉を思い出してください。そこで主イエスは、弟子たちがエクソウシア的権威を振るうことを戒めています。この事実の前に、私たちは立ち止って真剣に考えなおすべきではないでしょうか。

そういうわけで、教会指導者は高い地位にある人々と同じように権威を行使すべきだと論じることは、論理の飛躍であり、行き過ぎです。繰り返しますが、新約聖書は、エクソウシア(権威)と教会指導者をまったく結び付けていません。また、あるクリスチャンが別のクリスチャンに対してエクソウシアを有しているとも教えていません。

確かに旧約聖書は、預言者や祭司、王や士師を公務的な権威者として表現しています。その理由は、それらの「職(務)」がイエス・キリストの権威ある働きのひな型だったからです。キリストこそ、真の預言者であり、真の祭司であり、真の王であり、真の士師です。しかし教会指導者が公務的な権威であるとは、新約聖書には書かれていません。使徒奉仕者もその例外ではありません。

ありていに言えば、クリスチャンが他のクリスチャンの上に立つ権威を有するという概念は、実に押し付けがましい解釈なのです。聖書的根拠がないのですから。そういうわけで、もし教会指導者たちが政府高官と同じように権威を行使するのであれば、それは権威を強奪していることになります。

とは言っても、教会の中にも権威は働いています。しかしエクレシアに働く権威は、この世の権威とはまったく異質です。教会が単なる人間の団体ではなく、聖霊有機的組織体であることを思えば、それは当然のことです。教会の中で働く権威は、「公務的な」権威ではありません。「有機的な」権威なのです。



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