ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

公務的権威と霊的権威の違い

●公務的権威vs有機的権威

有機的な権威とは、どういうものなのでしょうか。それは、霊的ないのちから生れてくる権威です。有機的権威とは、意志伝達の権威です。つまり、誰かが言動や行動を通して、神の御心を伝達するときに働く権威です。

ということは、御霊のいのちを宿しているクリスチャンであるなら誰でも、有機的権威を行使することが可能です。新約聖書が「キリストを恐れ尊んで、互いに従う」よう勧めているのは、このためです(エペソ5:21)。ただし、霊的に熟練しているクリスチャンは、肉的な信者や霊的に幼い信者に比べて、より頻繁に御心を捉えている傾向があると言えます(ヘブル5:14)。

有機的な権威は、固定的な職務に就いているから発生するのではなく、キリストが「直接」指示を与える場合に発生します。職務や人物に付随するものではありません。公務的権威のように、人物や職務が帯びる権威ではないのです。

むしろ有機的権威は、特定の個人とは関係のないところで働きます。というのは、有機的権威はキリストから来るものだからです。キリストが誰かに指示を与え、言葉を語らせたり行動をとらせるときにのみ、その人は権威を帯びます。言い換えると、誰かが主の御心を行っているときは、その人には権威があるので、私たちはその人に耳を傾け、従うべきだということです。有機的権威が意志伝達の権威であるというのは、そういう意味です。

有機的権威の意志伝達の性質は、パウロが「からだ」という例えを使っているとおり、体の機能を参考にすると理解しやすくなります。かしら(キリスト)が手に動けというシグナルを出した場合、手はかしらの権威を帯びます。けれども手そのものには、何の権威もありません。ただかしらからの意志を伝達するときのみ、手は権威を帯びるのです。手がかしらの意志を代表している限りにおいて、手は権威を持つことになります。

実際、私たちの頭脳の働きも有機的ではありませんか!それは、人間の体が生きた組織体であることを物語っています。それと同じ原則が、霊的なかしら(キリスト)や霊的な体にも適応できるのです。クリスチャンも、言葉や行いでキリストの意志を代行しているときにのみ、霊的権威を行使するのです。

そういうわけで有機的権威は、柔軟性を帯びていて流動的なのものです。固定的ではありません。有機的権威は自己発生するものではなく、ほかから伝わってくるものなのです。ですから、いつも変わらず同じ人物が保有できる性質のものではありません。同時に有機的権威は、みからだによって評価され、認識されるものでもあるのです。

有機的権威は固定的ではなく、ほかから伝わってくるものですから、クリスチャンがそれを所有したり、相続したり、譲渡するということはありません。人が神の権威に成り代わることはできません。ただ代行するだけです。これが本来の特徴であって、それを誤解するなら、みからだにおける混乱や乱用を招くことになります。

霊的な権威について論じるときは、常に「権威の働き方」に強調点を置くべきであって、奥義的な「霊性」を強調すべきではありません。霊性に根拠をおいて権威を主張するなら、その人は自分を公務的な権威者にしているのと同じことです。なぜなら、「霊性」というものは(実際の霊性がどうであるかに関わらず)、職務に置き換えることが容易だからです。

もし誰かがほんとうに霊的であるなら、それはその人の生活や奉仕の中に実として表れるはずです。霊性はその実によってのみ確認されるべきであって、権威を持っているという主張によってではありません。このように(権威の)働き方のほうに着眼することによって、教会をカルト化から守ることができるのです。


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