公務的権威と霊的権威の比較
●比較対照
それでは公務的権威と有機的権威を、具体的に比較対照してみましょう。
1.公務的権威は、その主張が上位者の意向を侵害しない限り、従うことが義務付けられます(使徒5:29、ローマ13:1)。それに対して有機的権威を行使する者は、自分に従うよう要求することはありません。彼らは、人々が神に従うよう「説得」します。パウロの手紙はその見事な模範と言えます。命令するのではなく、訴えたり懇願しています。パウロの手紙には説得の言葉が目立ちます。(これについては後述します。)
2.公務的権威者が、自分に従う者たちを間違った行為に導いた場合は、自分がすべての責任を負います。民数記18章を見ると、イスラエルの公務権威者であった祭司たちは、咎を負わなければならなかったことがわかります。
しかし有機的権威は、他人の責任を無効にすることはしません。教会の中での行為の責任は、すべて信者自身が負います。それが、他者の意向に従って行った行為の責任であってもです。
聖書が多くの箇所で、他者の実を試すよう勧めているのはこのためです。同時に聖書は、誰かを惑わした場合は、神の裁きを受けることも教えています(マタイ7:15~27、16:11~12、24:4~5、汽灰螢鵐硲隠粥В横后▲ラテヤ1:6~9、2:4、ピリピ3:2~19、汽謄汽蹈縫隠機В横院↓汽謄皀藤押В隠粥↓汽茱魯唯魁В粥腺隠亜■粥В院腺供法クリスチャンが誰かの言う通りにしたからといって、そのクリスチャンに行為の責任はないと教えている箇所は、新約聖書にはまったくありません。
3.公務的権威者は、自分の権威の下にいる者より未熟であっても構いませんし、霊的でなくても構いません。義しくなくてもよいのです。けれども有機的な権威は、霊的生活と直結しています。分けて考えることはできません。
私たちは、自分の子どもたちに「年上の人の言うことを聞きなさい」とよく言います。それは、年上の人は思慮においてもそれだけ成熟しているからです。ですから私たちは、年上の人たちに敬意を払い、従うべきです(汽撻謄蹌機Вa)。同じ原則が、霊的な場でも適用できます。
霊的に成長している人たちは、より多くの有機的権威を帯びています。(人は、神の権威の下にいなければ霊的な権威を行使することはできません。)霊的成熟の確かなしるしは、しもべの心と、子どものようにへりくだった心を持っていることです。次の聖句を熟読してみてください。しもべの心とへりくだった心を持っている人々を、評価するよう勧めています。
汽灰螢鵐硲隠供В隠機腺隠
兄弟たちよ。あなたがたに勧めます。ご承知のように、ステパナの家族は、アカヤの初穂であって、聖徒たちのために熱心に奉仕してくれました。あなたがたは、このような人たちに、また、ともに働き、労しているすべての人たちに服従しなさい。ステパナとポルトナトとアカイコが来たので、私は喜んでいます。なぜなら、彼らは、あなたがたの足りない分を補ってくれたからです。彼らは、私の心をも、あなたがたの心をも安心させてくれました。このような人々の労をねぎらいなさい。
ピリピ2:29~30
ですから、喜びにあふれて、主にあって、彼を迎えてください。また、彼のような人々には尊敬を払いなさい。なぜなら、彼は、キリストの仕事のために、いのちの危険を冒して死ぬばかりになったからです。
汽謄汽蹈縫隠機В隠押腺隠
兄弟たちよ。あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人々を認めなさい。その務めのゆえに、愛をもって深い尊敬を払いなさい。
汽謄皀藤機В隠
よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです。
ヘブル13:7
神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。
ヘブル13:17
あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。
汽撻謄蹌機В
同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。
新約聖書が、霊的な奉仕のためにたゆまず労苦している人々を尊重するよう勧めていることは明らかです。このような評価は、自発的なものであると同時に実感的なものです。決して絶対化されたり、公式化されるべきではありません。
信者が教会から受ける誉れは、へりくだった奉仕に起因しています。決して要求したり、主張したりすべきではありません。真に霊的である人々は、他者に対して霊的権威を持つことを求めません。また自分たちの霊的労苦や霊的成熟度を誇ることもありません。実際のところ、そのような要求をする人たちは、自分たちの未熟さを表明しているのです。「自分は神に油注がれた者であり、今の時代のために力と権力を受けているのです」と主張するような人は、かえって自分には権威がないことを証明しているのです。
それとは逆に、教会で評価されている人は、信頼に値するしもべとしての証印を押されいるのです。単なる言葉ではなく、経験によってです(競灰螢鵐硲検В横押↓汽謄汽蹈縫隠院В機↓競謄汽蹈縫隠魁В隠亜法そのようにして教会から受けた認証と信頼こそ、その人に霊的権威が働いていることの評価基準なのです。
つづく
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それでは公務的権威と有機的権威を、具体的に比較対照してみましょう。
1.公務的権威は、その主張が上位者の意向を侵害しない限り、従うことが義務付けられます(使徒5:29、ローマ13:1)。それに対して有機的権威を行使する者は、自分に従うよう要求することはありません。彼らは、人々が神に従うよう「説得」します。パウロの手紙はその見事な模範と言えます。命令するのではなく、訴えたり懇願しています。パウロの手紙には説得の言葉が目立ちます。(これについては後述します。)
2.公務的権威者が、自分に従う者たちを間違った行為に導いた場合は、自分がすべての責任を負います。民数記18章を見ると、イスラエルの公務権威者であった祭司たちは、咎を負わなければならなかったことがわかります。
しかし有機的権威は、他人の責任を無効にすることはしません。教会の中での行為の責任は、すべて信者自身が負います。それが、他者の意向に従って行った行為の責任であってもです。
聖書が多くの箇所で、他者の実を試すよう勧めているのはこのためです。同時に聖書は、誰かを惑わした場合は、神の裁きを受けることも教えています(マタイ7:15~27、16:11~12、24:4~5、汽灰螢鵐硲隠粥В横后▲ラテヤ1:6~9、2:4、ピリピ3:2~19、汽謄汽蹈縫隠機В横院↓汽謄皀藤押В隠粥↓汽茱魯唯魁В粥腺隠亜■粥В院腺供法クリスチャンが誰かの言う通りにしたからといって、そのクリスチャンに行為の責任はないと教えている箇所は、新約聖書にはまったくありません。
3.公務的権威者は、自分の権威の下にいる者より未熟であっても構いませんし、霊的でなくても構いません。義しくなくてもよいのです。けれども有機的な権威は、霊的生活と直結しています。分けて考えることはできません。
私たちは、自分の子どもたちに「年上の人の言うことを聞きなさい」とよく言います。それは、年上の人は思慮においてもそれだけ成熟しているからです。ですから私たちは、年上の人たちに敬意を払い、従うべきです(汽撻謄蹌機Вa)。同じ原則が、霊的な場でも適用できます。
霊的に成長している人たちは、より多くの有機的権威を帯びています。(人は、神の権威の下にいなければ霊的な権威を行使することはできません。)霊的成熟の確かなしるしは、しもべの心と、子どものようにへりくだった心を持っていることです。次の聖句を熟読してみてください。しもべの心とへりくだった心を持っている人々を、評価するよう勧めています。
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兄弟たちよ。あなたがたに勧めます。ご承知のように、ステパナの家族は、アカヤの初穂であって、聖徒たちのために熱心に奉仕してくれました。あなたがたは、このような人たちに、また、ともに働き、労しているすべての人たちに服従しなさい。ステパナとポルトナトとアカイコが来たので、私は喜んでいます。なぜなら、彼らは、あなたがたの足りない分を補ってくれたからです。彼らは、私の心をも、あなたがたの心をも安心させてくれました。このような人々の労をねぎらいなさい。
ピリピ2:29~30
ですから、喜びにあふれて、主にあって、彼を迎えてください。また、彼のような人々には尊敬を払いなさい。なぜなら、彼は、キリストの仕事のために、いのちの危険を冒して死ぬばかりになったからです。
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よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです。
ヘブル13:7
神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。
ヘブル13:17
あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。
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同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。
新約聖書が、霊的な奉仕のためにたゆまず労苦している人々を尊重するよう勧めていることは明らかです。このような評価は、自発的なものであると同時に実感的なものです。決して絶対化されたり、公式化されるべきではありません。
信者が教会から受ける誉れは、へりくだった奉仕に起因しています。決して要求したり、主張したりすべきではありません。真に霊的である人々は、他者に対して霊的権威を持つことを求めません。また自分たちの霊的労苦や霊的成熟度を誇ることもありません。実際のところ、そのような要求をする人たちは、自分たちの未熟さを表明しているのです。「自分は神に油注がれた者であり、今の時代のために力と権力を受けているのです」と主張するような人は、かえって自分には権威がないことを証明しているのです。
それとは逆に、教会で評価されている人は、信頼に値するしもべとしての証印を押されいるのです。単なる言葉ではなく、経験によってです(競灰螢鵐硲検В横押↓汽謄汽蹈縫隠院В機↓競謄汽蹈縫隠魁В隠亜法そのようにして教会から受けた認証と信頼こそ、その人に霊的権威が働いていることの評価基準なのです。
つづく
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