ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

公務的権威と霊的権威の比較対照(後半)

4.公務的権威者は、職務に就いている限り権威を持ち続けます。そして彼らの権威は、彼らの決めることが愚かであっても、義しくなくても働き続けます。例えば、サウル王はイスラエルの王である間中、権威を持ち続けました。神の霊が彼から離れ去ったあとでもです(汽汽爛┘覽16:14、24:4~6)。

一方、有機的権威は、信者がキリストの通り良き管として用いられているときにのみ働きます。ですからもし誰かが、キリストの意志にそぐわないことを教会にさせるようなことがあれば、(仮にそれが、聖書に書かれた神の命令を直接侵害していないとしても)、その人をとおして権威が働くことはありません。ただキリストのいのちから流れ出て来るものだけが、権威を帯びるのです。

5.公務的権威は、事実上、常に階層制度(ピラミッド型の上下関係)の中で機能しています。有機的権威は、階層制度と関わることは決してありません(マタイ20:25~28、ルカ22:25~27)。事実、有機的権威が階層制度と共に用いられるときは、常に歪められたり、乱用されたりしています。新約聖書の中に、階層制度を描写するものがないのはこのためです。

わかりやすく言うと、有機的権威は上から下には流れないのです。ピラミッド型の命令系統の中で働くこともありません。かといって、有機的権威が下から上に働くということもないのです。言い換えると、有機的権威は教会から誰かに働くのではなく、(キリストからしか働かないのです。)たとえどこかの地域教会が、誰かに何かの働きをさせるために、その人に権威を授けると決定しても、それがキリストの思いと食い違っているならば、権威は伴いません。

有機的権威は、内側から外に向かって働きます。内住のキリストが、信者や地域教会をとおして語ったり、行動するときに、キリストの権威もまたその信者、あるいは地域教会と共に働きます。内住の御霊なるイエス・キリストだけが、権威の源泉であり、頼みの綱であり、唯一の起点なのです。ほかにはありません。

組織的な教会におけるリーダーシップ構造の問題点は、キリスト者の人間関係に、うかつにも公務的権威を適用してしまっているところにあります。この権威の誤用は、人々を十派一からげで統率しようとする考え方に根ざしています。公務的権威を生ける神の教会に適用しようとすること自体が、実に重大な過失であると言えます。


終わり


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