ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

新約聖書に見る知恵の実例(前半)

新約聖書に見る「知恵」の実例

エルサレムの教会がはじめて危機に直面したとき、使徒たちは「兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と【知恵】とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい」と言いました。なぜでしょうか。彼らが外的なしるしと神からの内なる示しを解読できるからでしょうか。違います。彼らの賢明な判断によって、危機を乗り越えるためです。

コリントの教会では、ある兄弟たちが個人的な争いを解決するために、他の兄弟たちをこの世の裁判で訴えていました。パウロはどのように解決しましたか。「内なる示しと外的なしるしを解読できる信者をあなたがたの中から選びなさい」と言ったでしょうか。いいえ、パウロはそのようには言いませんでした。こう言ったのです。「いったい、あなたがたの中には、兄弟の間の争いを仲裁することのできるような【賢い者】が、ひとりもいないのですか。」

テモテやテトスに、手紙によって長老に関する指導を与えたときにも、長老とは「自分を制し、慎み深く」振舞える人であるべきだと、パウロは言っています。言い換えると、長老とは、知恵と健全な判断力を持っている人だということです(汽謄皀藤魁В押▲謄肇坑院В検■押В押法

使徒の働き15章では、エルサレム教会が重大な判断を下す場合の、見事なお手本を示しています。激しい論争のあとで、使徒たちと全教会は言いました。「そうすることは、聖霊と私たちにとって良いことだと思われたので」(使徒15:28、英訳)と述べています。この「思えたので」というのは知恵を表しています。

驚いたことに、ルカは福音書の書き出しの部分でも、まったく同じ表現を使っています。「私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います」(1:3)。「私も、・・・と思います」とルカは書いていますが、これは聖霊によって霊感を受けて書かれた表現です。

知恵とは、神から掛け離れた、人間的な思いではありません。主にあって与えられたものなのです。単に神から来ているというだけでなく、イエス・キリストが知恵という姿をとってご自分を具現化しているとすら言えるのです。

ですから本当の知恵というのは、主から来るものです。なぜなら、主は知恵の神だからです。次の聖句に注目してください。判断をする上での勧めが書かれています。



「うわべによって人をさばかないで、正しい【さばき】(=判断)をしなさい。」ヨハネ7:24


「すべてのことを【見分け】て、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。」汽謄汽蹈縫隠機В横


「私が言っていることを【よく考えなさい】。主はすべてのことについて、【理解する力】をあなたに必ず与えてくださいます。」競謄皀藤押В


「そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、【賢い】人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、【よく悟りなさい】。」エペソ5:15~17


「私は【賢い】人たちに話すように話します。ですから私の言うことを【判断してください】。」汽灰螢鵐硲隠亜В隠


「あなたがたは自分自身で【判断しなさい】」。汽灰螢鵐硲隠院В隠


「預言する者も、ふたりか三人が話し、ほかの者はそれを【吟味しなさい】。」汽灰螢鵐硲隠粥В横


つづく


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