ダイジェスト版(その2)
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この箇所の解釈は、大きく7種類あります。
解釈1
ある方々は、この箇所は、汽謄皀藤押В検腺隠気板艦造気擦襪燭瓩法古代の写本筆記者が挿入したものだと論じています。はじめは欄外に書かれていたが、どこかの時点で現在の位置に書かれたと。そして何人かの写本筆記者は、この箇所を40節の後ろに付け足したというのです。西方教会の写本は、34節~35節が40節の後ろにあることが、その証拠であると。またこの2つの節が文脈の流れと一致せず、11:5と矛盾しているのは、その挿入のためだと論じています。加えて、「律法も言うように」などのフレーズが、パウロらしくないのも、その挿入によるものだとしています。
しかし、この2つの節が書かれていない写本はまったく存在しません。知られている限り、すべての写本に、この2つの節は記載されているのです。確かに西方写本ではこの2つの節は14章の一番最後に書かれていますが、省略されているわけではありません。
解釈2
ある方々は、パウロが、コリントの伝統主義者の言葉を引用しているのだと主張しています。11:5と11:10でパウロは、女性が集会で祈ることと預言することを是認しています。しかしコリント教会の全員にそれが受け入れられたわけではなく、特に、ユダヤ人クリスチャンには受け入れてもらえなかったと。パウロは反対者の言葉を引用して、彼らに応答しているのだというのです。パウロの答えは14:36から始まっており、それはギリシャ語の接頭辞によって示されていて、その接頭辞は14:34~35を否定していることを示しているというのです。もしそうだとすると、14:36は、「神のことばは、あなたがた男性から出たのでしょうか。そんなことはないでしょう。神のことばは、あなたがた男性にだけ伝わったのですか。そんなことはないでしょう」となり、つまるところ、パウロはユダヤ的制限を拒絶し、女性に集会で語る権限を与えていることになります。
しかし、36節が男性に対してのみ語られているという証拠はどこにもありません。また、もしパウロが反対者の言葉を引用したとすると、この箇所は、反対者からの最も長い引用となり、逆に、パウロの応答は、最も短い応答ということになってしまいます。
解釈3
ある方々は、この2つの節が文化的な事情によるもので、シナゴーグにおけるラビ的習慣や文化的習慣だと主張しています。コリント教会内のユダヤ人クリスチャンに配慮するため、パウロがシナゴーグの習慣を敢えて取り入れて、女性が語ることを禁じたのだというのです。確かにシナゴーグでは、女性は活発な役割を担っていませんでした。しかし活発でなかった理由は、神によって禁じられていたからではありませんでした。パウロは、女性が語ることは罪深いことだとは言っていません。「恥ずかしい」(「ふさわしくない」)ことだと言っているのです。つまりパウロは、この問題を11:6と同様、文化の問題として見ているのです。11:6では、女性が頭を剃ってしまうことは、恥ずかしいことだとしています。
しかしこの説に立つと、パウロが「律法」という言葉で何を意味しているのかがわからなくなります。この箇所の「律法」には、定冠詞がついています。つまり「その律法」です。14章で「律法」が出てくるのは、21節だけです。そこではパウロは、イザヤ28:11~12を引用し、「律法にこう書いてあります」という事実に言及しています。11章で自分が是認した行いを否定するために、パウロがラビ的伝統を引き合いに出すとは考えにくいことです。それに加えて、「恥ずかしい」という表現が、罪深いことを意味するとは限りませんが、罪深いことを意味しないとも言い切れません。パウロが律法を引き合いに出していることは、女性を黙らせるためではなく、女性たちが従っていることを示すためです。汽撻謄蹌魁В機腺兇砲茲譴弌旧約聖書は女性たちの従順を伝えています。ですから、パウロはコリン教会に関しても、同じ原則を当てはめているのです。
解釈4
ある方々は、パウロは、女性たちが無駄口と無秩序な行動をして、集会の妨げになっていたので、そういう言動を禁じたのだと主張しています。キャサリン・クローガーは、ギリシャ・ローマ時代のカルトに属していた女性たちが、叫び声をあげたり泣き出したりしていたことがコリント教会の問題だったと主張しています。コリント教会における異教の影響は、潜在的な問題であることが示されています。そこで完全な沈黙が課され、集会をする場合は、無意味な雑音は一切禁止されているということです(14:9、11~13、28)。騒いでいた女性をパウロが沈黙させたということであれば、筋が通ります。加えて、「話す」に相当するギリシャ語ラレオーは、わけのわからない長話や無駄口を意味していたのではないかという意見もあります。
しかし、ラレオーの文脈における使われ方は、意味のある発言であることが示唆されています。いくつかの文脈では、無駄口である可能性もありますが、ラレオーの通常の意味は無駄口ではありません。質問をすることによる妨害を除けば、女性たちが集会を混乱させていたことの証明にはなりません。無駄口をたたいていた女性がいたことの可能性が考えられるにとどまります。それに、無駄口をたたく女性が何人かいたとしても、だからといってすべての女性の発言を禁止したのはなぜでしょうか。もっと言えば、女性の発言の禁止がすべての教会で習慣とされていたこととも噛み合いません。カルト的な無駄口が、コリント以外の諸教会でも問題となっていたと考えなければならなくなってしまいます。
解釈5
ある方々は、14:34~35は、預言者の妻たちに対する処置だったと主張しています。「女性たち」というギリシャ語が、「妻たち」とも訳せるため、パウロは預言者の妻たちの役割を制限しているというのです。35節は、妻たちによる質問が、彼女らの夫の預言活動の妨げになっていたというのです。そこで、彼女たちは家に帰ってから質問するようと命じられたと。
しかしこの考え方ですと、パウロの命令が、極端に狭い範囲に限定されたことになります。「聖とたちのすべての教会で」、預言者の妻は集会中、質問できなかったということは、果たして事実だったのでしょうか?独身の女性は質問しても良かったのでしょうか。この議論は、パウロが無秩序な発言を禁じていたという仮定でのみ妥当とされます。
解釈6
ある方々は、パウロは、集会で女性がリーダーシップを行使することがないように、女性による公の発言(聖霊によるものも、そうでないものも)をすべて禁じたと主張しています。中には、女性が集会中、質問が一切できないように、完全な沈黙が求められたとまで主張する人もいます。この沈黙は、「アーメン」と言うことも含め、一切の発声を禁じるものです。この見解は、ラレオー(「語る」の意)というギリシャ語が、14章の文脈上、リーダーシップをとるための発言だという解釈に乗っ取っています。そして、パウロは女性が教会の集会で、リーダーシップをとることを禁じているのだとしています。この場合のリーダーシップは、集会における賛美リード、祈りを導くこと、聖書の朗読、聖霊の賜物の行使全般、を含んでいます。
この解釈における問題点は、11章におけるパウロの発言です。パウロは、11:5で是認したことを、14:34では責めているのでしょうか。そうだとすると、パウロの発言自体に明確な矛盾が生じてしまいます。この解釈の真価は、11章との矛盾を如何に解決するかにかかっているということになります。
解釈7
ある方々は、パウロが禁じているのは、女性が預言の吟味に参加することだと主張しています。文脈がそれを示しているというのです。パウロは14章で、異言と預言について指導しています。確かに39節で、異言と預言という言葉を具体的に出して論述を完結しているので、14章におけるパウロの関心の中心は異言と預言であったことがわかります。女性に関しての論述は、これら2種類の賜物のうちのどちらか、あるいは、両方に付随して述べられているということになります。34節~35節は、預言に関しての文脈の続きとされます。文脈の中では、預言に関連する2つの分野が述べられています。1)29節前半で、預言そのものに関して。2)29節後半で、預言で語られたことの吟味、あるいは評価に関してです。パウロは、30節~33節では預言そのものに関して述べていますが、34節~35節では預言の吟味について述べているということになります。聖霊によって導かれたとき、女性が預言することは許可されています。しかし女性が、他者の語った預言を吟味することは許されていないというのです。その理由としては、吟味することは教えの役割を含んでいるからです。女性は、教会において男性に教えることを許されていません。これは権威とマナーに反するからです(汽謄皀藤押В隠押法ですから、預言が語られ、吟味が行われる集会においては、女性は質問することができないのです。なぜなら質問することは、吟味と見なされる可能性があるからです。
この箇所の解釈は、大きく7種類あります。
解釈1
ある方々は、この箇所は、汽謄皀藤押В検腺隠気板艦造気擦襪燭瓩法古代の写本筆記者が挿入したものだと論じています。はじめは欄外に書かれていたが、どこかの時点で現在の位置に書かれたと。そして何人かの写本筆記者は、この箇所を40節の後ろに付け足したというのです。西方教会の写本は、34節~35節が40節の後ろにあることが、その証拠であると。またこの2つの節が文脈の流れと一致せず、11:5と矛盾しているのは、その挿入のためだと論じています。加えて、「律法も言うように」などのフレーズが、パウロらしくないのも、その挿入によるものだとしています。
しかし、この2つの節が書かれていない写本はまったく存在しません。知られている限り、すべての写本に、この2つの節は記載されているのです。確かに西方写本ではこの2つの節は14章の一番最後に書かれていますが、省略されているわけではありません。
解釈2
ある方々は、パウロが、コリントの伝統主義者の言葉を引用しているのだと主張しています。11:5と11:10でパウロは、女性が集会で祈ることと預言することを是認しています。しかしコリント教会の全員にそれが受け入れられたわけではなく、特に、ユダヤ人クリスチャンには受け入れてもらえなかったと。パウロは反対者の言葉を引用して、彼らに応答しているのだというのです。パウロの答えは14:36から始まっており、それはギリシャ語の接頭辞によって示されていて、その接頭辞は14:34~35を否定していることを示しているというのです。もしそうだとすると、14:36は、「神のことばは、あなたがた男性から出たのでしょうか。そんなことはないでしょう。神のことばは、あなたがた男性にだけ伝わったのですか。そんなことはないでしょう」となり、つまるところ、パウロはユダヤ的制限を拒絶し、女性に集会で語る権限を与えていることになります。
しかし、36節が男性に対してのみ語られているという証拠はどこにもありません。また、もしパウロが反対者の言葉を引用したとすると、この箇所は、反対者からの最も長い引用となり、逆に、パウロの応答は、最も短い応答ということになってしまいます。
解釈3
ある方々は、この2つの節が文化的な事情によるもので、シナゴーグにおけるラビ的習慣や文化的習慣だと主張しています。コリント教会内のユダヤ人クリスチャンに配慮するため、パウロがシナゴーグの習慣を敢えて取り入れて、女性が語ることを禁じたのだというのです。確かにシナゴーグでは、女性は活発な役割を担っていませんでした。しかし活発でなかった理由は、神によって禁じられていたからではありませんでした。パウロは、女性が語ることは罪深いことだとは言っていません。「恥ずかしい」(「ふさわしくない」)ことだと言っているのです。つまりパウロは、この問題を11:6と同様、文化の問題として見ているのです。11:6では、女性が頭を剃ってしまうことは、恥ずかしいことだとしています。
しかしこの説に立つと、パウロが「律法」という言葉で何を意味しているのかがわからなくなります。この箇所の「律法」には、定冠詞がついています。つまり「その律法」です。14章で「律法」が出てくるのは、21節だけです。そこではパウロは、イザヤ28:11~12を引用し、「律法にこう書いてあります」という事実に言及しています。11章で自分が是認した行いを否定するために、パウロがラビ的伝統を引き合いに出すとは考えにくいことです。それに加えて、「恥ずかしい」という表現が、罪深いことを意味するとは限りませんが、罪深いことを意味しないとも言い切れません。パウロが律法を引き合いに出していることは、女性を黙らせるためではなく、女性たちが従っていることを示すためです。汽撻謄蹌魁В機腺兇砲茲譴弌旧約聖書は女性たちの従順を伝えています。ですから、パウロはコリン教会に関しても、同じ原則を当てはめているのです。
解釈4
ある方々は、パウロは、女性たちが無駄口と無秩序な行動をして、集会の妨げになっていたので、そういう言動を禁じたのだと主張しています。キャサリン・クローガーは、ギリシャ・ローマ時代のカルトに属していた女性たちが、叫び声をあげたり泣き出したりしていたことがコリント教会の問題だったと主張しています。コリント教会における異教の影響は、潜在的な問題であることが示されています。そこで完全な沈黙が課され、集会をする場合は、無意味な雑音は一切禁止されているということです(14:9、11~13、28)。騒いでいた女性をパウロが沈黙させたということであれば、筋が通ります。加えて、「話す」に相当するギリシャ語ラレオーは、わけのわからない長話や無駄口を意味していたのではないかという意見もあります。
しかし、ラレオーの文脈における使われ方は、意味のある発言であることが示唆されています。いくつかの文脈では、無駄口である可能性もありますが、ラレオーの通常の意味は無駄口ではありません。質問をすることによる妨害を除けば、女性たちが集会を混乱させていたことの証明にはなりません。無駄口をたたいていた女性がいたことの可能性が考えられるにとどまります。それに、無駄口をたたく女性が何人かいたとしても、だからといってすべての女性の発言を禁止したのはなぜでしょうか。もっと言えば、女性の発言の禁止がすべての教会で習慣とされていたこととも噛み合いません。カルト的な無駄口が、コリント以外の諸教会でも問題となっていたと考えなければならなくなってしまいます。
解釈5
ある方々は、14:34~35は、預言者の妻たちに対する処置だったと主張しています。「女性たち」というギリシャ語が、「妻たち」とも訳せるため、パウロは預言者の妻たちの役割を制限しているというのです。35節は、妻たちによる質問が、彼女らの夫の預言活動の妨げになっていたというのです。そこで、彼女たちは家に帰ってから質問するようと命じられたと。
しかしこの考え方ですと、パウロの命令が、極端に狭い範囲に限定されたことになります。「聖とたちのすべての教会で」、預言者の妻は集会中、質問できなかったということは、果たして事実だったのでしょうか?独身の女性は質問しても良かったのでしょうか。この議論は、パウロが無秩序な発言を禁じていたという仮定でのみ妥当とされます。
解釈6
ある方々は、パウロは、集会で女性がリーダーシップを行使することがないように、女性による公の発言(聖霊によるものも、そうでないものも)をすべて禁じたと主張しています。中には、女性が集会中、質問が一切できないように、完全な沈黙が求められたとまで主張する人もいます。この沈黙は、「アーメン」と言うことも含め、一切の発声を禁じるものです。この見解は、ラレオー(「語る」の意)というギリシャ語が、14章の文脈上、リーダーシップをとるための発言だという解釈に乗っ取っています。そして、パウロは女性が教会の集会で、リーダーシップをとることを禁じているのだとしています。この場合のリーダーシップは、集会における賛美リード、祈りを導くこと、聖書の朗読、聖霊の賜物の行使全般、を含んでいます。
この解釈における問題点は、11章におけるパウロの発言です。パウロは、11:5で是認したことを、14:34では責めているのでしょうか。そうだとすると、パウロの発言自体に明確な矛盾が生じてしまいます。この解釈の真価は、11章との矛盾を如何に解決するかにかかっているということになります。
解釈7
ある方々は、パウロが禁じているのは、女性が預言の吟味に参加することだと主張しています。文脈がそれを示しているというのです。パウロは14章で、異言と預言について指導しています。確かに39節で、異言と預言という言葉を具体的に出して論述を完結しているので、14章におけるパウロの関心の中心は異言と預言であったことがわかります。女性に関しての論述は、これら2種類の賜物のうちのどちらか、あるいは、両方に付随して述べられているということになります。34節~35節は、預言に関しての文脈の続きとされます。文脈の中では、預言に関連する2つの分野が述べられています。1)29節前半で、預言そのものに関して。2)29節後半で、預言で語られたことの吟味、あるいは評価に関してです。パウロは、30節~33節では預言そのものに関して述べていますが、34節~35節では預言の吟味について述べているということになります。聖霊によって導かれたとき、女性が預言することは許可されています。しかし女性が、他者の語った預言を吟味することは許されていないというのです。その理由としては、吟味することは教えの役割を含んでいるからです。女性は、教会において男性に教えることを許されていません。これは権威とマナーに反するからです(汽謄皀藤押В隠押法ですから、預言が語られ、吟味が行われる集会においては、女性は質問することができないのです。なぜなら質問することは、吟味と見なされる可能性があるからです。