ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

ダイジェスト版(その3)

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解決方法

汽灰螢鵐硲隠粥В械粥腺械気硫鮗瓩涼罎如⊇?の祈りや預言を許可する解釈は、どれも11章と14章の調和を保っています。祈りや預言によって女性が集会をリードすることを禁じているのは、解釈6だけです。現時点での私の考えでは、この解釈6が最善の選択のように思えます。ただし、11:5と14:35の間にある、明白な矛盾は解決されなければなりません。ここではまず、いくつかの解決方法を提示します。そして一通り解決方法を見た上で、それぞれの解決方法に対する批評を加えていきたいと思います。


解決方法1

ある方々は、汽灰螢鵐硲隠院В押腺隠兇馬誕蠅砲気譴討い觸顕颪蓮男女が混合した集会ではないと主張しています。一方、汽灰螢鵐硲隠粥В械粥腺械気蓮男女混合の集会における女性のリーダーシップを禁じていますから、汽灰螢鵐硲隠院В押腺隠兇僚顕颪蓮男性不在で女性のみが祈りや預言をしていた集会だとしています。


解決方法2

ある方々は、汽灰螢鵐硲隠院В押腺隠兇埜譴蕕譴討い觸顕颪聾朕妖で非公式なもので、汽灰螢鵐硲隠款呂僚顕颪蓮教会全体で持たれる公式の集会だとしています。この理解に立ちますと、私的な集会においては、パウロは女性による霊的賜物の運用やリーダーシップを許可するけれども、公の集会においては、その性質上、女性による賜物の使用やリーダーシップが禁じられているということになります。


解決方法3

ある方々は、パウロは汽灰螢鵐硲隠云呂能?の祈りや預言について述べてはいるけれども、実際のところは、それらを許可していないのだと主張しています。男女混合の公の集会について述べているが、パウロはそれぞれの章の中で一つのテーマに絞って語っているというのです。11章ではかぶり物についてのみ語り、14章では「語る」ということについてのみ論じているとしています。この考え方は、8章と10章で偶像に捧げられた肉を食べることについてパウロが論じている方法と同じ方法を、11章と14章で使っているということになります。8章では肉を食べることを許可しているように見えますが、10章でははっきりと禁じています。それと同じように、11章では祈りや預言を許可しているように見えますが、14章でははっきりと禁じているというのです。


解決方法4

ある方々は、パウロは暗黙のうちに、女性の祈りや預言を禁じていると主張します。その理由は、祈ったり預言したりするために、女性たちはかぶり物を外さなければならないからだというのです。権威を行使して公の集会をリードすると同時に、従順を象徴するかぶり物をつけることは、女性たちにとって一貫性を欠くことになるというのです。そういうわけで、パウロが、かぶり物をしないなら祈りや預言をすべきでないと言っているのは、暗に祈りや預言をまったくしてはならないと言っているのだというのです。


解釈の鍵となる原則

14:34と11:5の間にある明確な矛盾を解決ことは困難です。この点で、上記の4つの解決方法のうち、どれ一つとして満足なものはありません。それでは、私たちは行き詰ってしまったのでしょうか。この箇所は、理解不能なのでしょうか。このセクションでは、鍵となる4つの原則を提示し、それによって難解な箇所を理解し、上記の解決方法を論評していきます。

まず初めに、汽灰螢鵐硲隠云呂如▲僖Ε蹐女性に祈りや預言をする権限を与えていないとする解釈は、どれも誤りです。パウロの言葉の中には否認のかけらすらないことを認めなければなりません。というのは、パウロは11章を書き始めるに当たり、コリント教会のクリスチャンたちをほめているからです。パウロのこの賞賛は、かぶり物の使用に関してで、コリント教会の行為を是認していることの証拠です。

加えて、汽灰螢鵐硲隠院В隠阿、解釈の鍵を与えてくれています。この節は2つの理由で難解です。1)御使いに関する意味合いが曖昧です。2)「権威」、あるいは「権威のしるし」という訳が、混乱を招いています。特に、2)が重要です。なぜなら10節は、7節と対照になっているからです。7節によると、「男はかぶり物を着けるべきではありません。」10節は、同じ単語を使用して、「女は頭に権威(のしるし)を着けるべきです」と言っています(英訳)。明らかに、これらの箇所は、男性は祈りや預言をするときにかぶり物をすべきではなく、逆に女性はかぶり物をすべきだと述べています。パウロは、男性に関して言うときは「かぶり物」という単語を使っていますが、女性に関して言うときは「権威」という単語を使っているのです。

問題となるフレーズは、「権威を持つ」です。多くの人はこの部分を、受身的な意味に解釈しています。つまり、かぶり物をつけているときは、女性は夫の権威のしるしをつけていると解釈しているのです。「権威(のしるし)を持つ」(英訳)を、かぶり物によって、女性は夫に敬意を表明しているという意味で捉えています。ところが、「権威」という言葉がそういうことを意味することはあり得ません。実はこの箇所は、積極的な意味を持っています。権威を持っているのは、女性なのです。「権威」という単語は、新約聖書の他の箇所では、人間関係を表すために使われている言葉です。この箇所の意味を理解するには、汽灰螢鵐箸梁召硫媾蠅鮓る必要があります。この「権威を持つ」というフレーズは、他の箇所ではすべて、個人が特権を行使するときの「権利」という意味で使われているのです。例えば、「いったい私たちには飲み食いする権利がないのでしょうか。私たちには、ほかの使徒、主の兄弟たち、ケパなどと違って、信者である妻を連れて歩く権利がないのでしょうか」(汽灰螢鵐硲后В粥腺機砲任后汽灰螢鵐硲后В院腺隠欧隆屬法同じフレーズが5回使われています。このフレーズは、使徒たちの権利について述べています。同様にして、同じフレーズが汽灰螢鵐硲隠院В隠阿任盪箸錣譴討り、かぶり物をつけている女性は、集会の中で祈ったり預言する権利を持っているという意味で使われているのです。

そういうわけで、汽灰螢鵐硲隠院В押腺隠兇砲いて女性が祈りや預言をする権利を否定する解釈は、どれも誤りです。ですので、解決方法3の考え方も誤りです。パウロは11章で、女性の活動をはっきりと是認しているのです。これにより、解決方法3および解決方法4は、考察の必要がなくなりました。

次に、汽灰螢鵐硲隠院В押腺隠兇僚顕颪函↓汽灰螢鵐硲隠院В隠掘腺械瓦僚顕颪鯤けて考えている解釈は、どれも誤りです。解決方法1と解決方法2は、女性だけの集会とか、個人的な集会という考え方を採用しています。もし11:17~34の主の晩餐に関する集会と、11:2~16の集会との関連性が成立する場合は、解決方法1も2も不適切ということになります。汽灰螢鵐箸諒弧において、かぶり物と主の晩餐の議論は重要なテーマです。しかしどちらのテーマも、コリント教会からパウロに書かれた手紙には、含まれていませんでした。どちらのテーマとも、コリントからパウロを訪れた訪問者のほうから提起されたテーマです。11:2でパウロは、コリント教会が「私があなたがたに伝えたもの」を堅く守っていたので、彼らをほめています。そして11:17、23では、ほめることを拒否しています。「あなたがたに伝えた」というフレーズが11:2と11:23で共通です。このことは、2つのセクションに関連性を持たせるものです。異教的な礼拝を避けるべき(10:14~22)と論じたあとで、パウロはクリスチャンとして本来あるべき礼拝のあり方(11:2~14:40)を示しました。このことは、11:2~16の集会と11:17~34の集会が同一の教会の集会であることを物語っています。二つを分けて考えられる余地はありません。パウロの伝えたことを守る守らないの件で、ほめるかほめないかが述べられていることは、両者を関連付けるものです。

(中略)

第三に、汽灰螢鵐硲隠云呂痢峙Г蠅簍存澄廚髻↓汽灰螢鵐硲隠款呂埜世錣譴討い覦嫐と異なる意味に解釈しているものは、どれも誤りです。ある方々は、汽灰螢鵐硲隠款呂痢峙Г蝓廚蓮∪爾鮟个気覆さГ蠅世箸靴討い泙垢、「預言」に関しては、それはあり得ません。預言は(音声として)聞くことのできる行為で、教会を導き、啓発するものです。(中略)

第四に、汽灰螢鵐硲隠云呂乃?弔気譴討い襪海箸髻↓汽灰螢鵐硲隠款呂任篭悗犬討い覯鮗瓩蓮△匹譴盡蹐蠅任后パウロがそのような短い文章における重大な問題に関して、自論を覆すような矛盾を犯すと考えるのは、筋が通っていません。解釈6がもっとも筋が通っていると思われますが、それと同様に、11章と14章の間で、パウロの論理に矛盾をきたす解釈は、否定されるべきです。11章でパウロが許可していることが、14章では禁止されているかのように思えるかもしれません。しかしもし女性が声を出して祈り預言することをパウロが許可していることがはっきりしているなら、14章でパウロが禁じていることは一体、何でしょう。困難は残るものの、聖句の意味が、解釈7と一致すると考えることが最善と思われます。

結論

パウロは、男女混合の公の集会において、女性に祈りや預言をする権限を与えています。汽灰螢鵐硲隠院В押腺隠兇硲隠院В隠掘腺械瓦脇韻原飢颪亡悗垢覽掴世任垢ら、パウロが男性にも女性にも、祈りや預言をすることを肯定していることは明白です。

パウロは男女混合の集会で、女性が教える役割を果たすことを禁じています。パウロは確かに、汽灰螢鵐硲隠粥В械粥腺械気砲いて、重大なる禁止事項を示しています。それは、すべての教会における普遍的な規則とすべきものです。その教えは、旧約聖書で語られている、従順の原則に土台を置いています。パウロによる禁止事項は、預言の吟味あるいは、評価に関してであると受け取ることことが最善と思われます。女性は男女混合の公の集会において、教えの役割を務めるべきではありません。