ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

回復訳フットノートの疑問

マタイ5:3のノート4によれば、「天の王国は、神の王国の中の限られた部分であり、今日の召会と来たるべき千年王国の天の部分だけを含みます」と書かれています。

千年王国は将来実現するものですので、現時点に置ける「天の王国」は教会しか含んでいないということです。
 
ということは 天の王国=教会 でしょう。
 
マタイ7:21のノート1によれば、「天の王国(教会)に入ることは、天の父のみこころを行なうことを要求するのですから、それは再生されて神の王国に入ることとは明らかに異なっています」とあります。
 
●疑問1
フットノートによれば、天の王国は神の王国の一部です。新生すれば神の王国には入れます。でも新生だけでは天の王国(教会)には入れません。だとすると、新生しているけれども、行いが不足して天の王国(教会)には入れない人というのはどういう人なのでしょうか?
 
神の国に入っているのですから、その人たちは救われているのですよね。
 
でも行いが足りなければ天の王国(教会)の一員にはなれずに、神の国を出て地獄に行くというのでしょうか?
 
それとも、神の国のどこかに、そういう人が行かされる区域があるのでしょうか?
 
●疑問2
ローマ8:30に「神はあらかじめ定めた者たちを、さらに召し、そして召した者たちを、さらに義とし、そして義とした者たちを、さらに栄光化されました 」とあります。
 
この言葉は、再生された人たちは必ず栄光化されることを示しています。そこで以下のフットノートもそれを認めています。
 
8章30節 フットノート2
栄光化は神の全き救いです。それは、神がその霊を通して、わたしたちの霊を再生するという原則にしたがって、わたしたちの死に属する、死ぬべき罪の体(7:24.8:11.6:6)を、彼の命と性質の栄光で、完全に浸透することです。そして、神はこの体を変貌させ、御子の復活した栄光の体に同形化されます(ピリピ3:21)。これは神の全き救いの最終段階です。そこにおいて、神は完全な表現を得られます。それは、来たるべき時代の新エルサレムにおいて、究極的に現されるでしょう。 
 
「わたしたちの霊を再生するという原則にしたがって、わたしたちの死に属する、死ぬべき罪の体(7:24.8:11.6:6)を、彼の命と性質の栄光で、完全に浸透することです」とあるのですから、新生した人は最低でも、キリストの栄光が完全に浸透した状態にまで達するわけですよね。
 
それでも行いが不足していれば、天の王国に入れてもらえないのですか?
 
これはどう考えても矛盾でしょう。
 
●疑問3
ローマ8:15に「あなたがたは、再び恐れを抱かせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分の霊を受けたのであり、この霊の中で、わたしたちは 『アバ、父よ!』と叫ぶのです」とあります。
 
人は再生(新生)されると、神の子どもにしてもらえます。神と親子関係になるのです。フットノートもそれを認めて以下のように述べています。
 
8章15節 フットノート1
わたしたちの再生された人の霊は、神の御子の霊と混ざり合わされています(参照,ガラテヤ4:6のノート3)。この霊における子たる身分は、子の命、地位、生活、享受、長子の特権、嗣業、出現を含んでいます。このようなすべてを含む子たる身分が、今やわたしたちの霊の中にあるのです。 
 
「嗣業」というのは天の財産を相続することですよね。再生された人の霊の中には、天の相続がすでにあるわけです。
 
それなのに地上での行いが足りなければ、天の王国に入れてもらえないというのは、どういうことですか?
 
神はその人の父になったにもかかわらず、地上での行いが不足していたら天の王国には入れないのですか?
 
もしそうだとすると、上記のフットノートと明らかに矛盾します。