ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

キリストによる代表制(その1)

「ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、-それというのも全人類が罪を犯したからです。」」ローマ5:12

聖書は、神が人間を取り扱う方法を教えています。
 
神は、人間を個人単位で取り扱いますが、同時にグループ単位でも取り扱います。
 
上記のローマ5:12は、神が人間をグループ単位で取り扱うことを示す、最も顕著な事例です。

●文法的解説
「ひとりの人によって罪が世界に入り」とは、アダムの罪のことを指しています。
 
たった一人の人の、たった一度の不従順により、「全人類が罪を犯した」とパウロ(聖書)は見なしています。

「全人類が罪を犯した」というフレーズの「罪を犯した」の部分は、原典ではハマルタノー(罪を犯す)のアオリスト過去形が使われています。

アオリスト過去形とは、過去にただ一度だけ行われた歴史的な行為を表現する過去形です。

何度も繰り返した行為ではなく、現在も続けて行われている行為でもなく、過去の特定の時点で一度だけ行われた行為を表します。

このことからわかることは、アダムが違反したとき、全人類もアダムの中に存在していてアダムとともに善悪知識の木の実を食べたと、聖書が見なしていることです。

●代表制
「というのは、メルキゼデクがアブラハムのを出迎えたときには、レビはまだ父の腰の中にいたからです。」ヘブル7:10

上記の聖句も代表制の事例です。

レビはまだ生まれていませんでしたが、神はレビが「アブラハムの腰の中」にいて、アブラハムとともに十分の一をメルキゼデクに納めたと述べています(ヘブル7:9)。

神は、罪と死に関してもこの原則を適用しています。

アダムは直接神から禁止命令を受け、直接それに違反しました。

私たちアダムの子孫は、直接にはその命令に違反したことはありません。

私たちはアダムが罪を犯した時点ではまだ生まれておらず、この世に存在していないからです。

しかし神は、私たちもアダムと同じ罪を犯したと見なしているのです。

これは神がアダムを全人類のかしら(代表)として扱い、その代表の行為を私たちの行為として扱っていることの証です。

この世には存在していませんでしたが、アダムの腰の中にいて私たちもまたアダムとともに神に逆らったのです。

ヒューマニズムに従って考えると、このような扱い方は神の横暴としか言いようがありません。

しかし神に対する違反、およびその代価としての死に関しては、アダムが全人類を代表しているのです。

それゆえにアダムによって代表される人々もみな、同じ違反を犯したと見なされ、同じ罰を適用されるのです。
 
●生まれながらの罪人
聖書は、生まれる前の胎児でも罪人であると教えています。

「ああ、私は罪ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。」詩篇51:5

このようにダビデは、聖霊によって、人が罪人として生まれてくることを悟りました。

多くのクリスチャンさえ誤解していますが、私たちは、様々な個々の罪を犯したから罪人になるのではありません。

アダムの子孫だから罪人なのです

全人類が罪人なのは、アダムの子孫だからであって、彼らが何かの罪を犯したからではありません。

個々の罪を犯すのは、あくまでアダムの子孫だということの表れであり、結果なのです。
 
すべての人間が死ぬのも彼らがアダムの子孫だからであり、
 
それゆえ違反の代価である死という罰を受け継いでいることの証です。

肉体が老朽化するから死ぬのではありません。

私たちが罪人だから肉体が老朽化し、アダムとともに神の命令に逆らったから死ぬのです。