ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

キリストによる代表制(その2)

「ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。」ローマ5:19

前回の記事で、すべての人間はアダムによって代表されるため罪人なのだという説明をしました。

ローマ5:14の後半に「アダムはきたるべき方のひな形です」とありますが、これはどういう意味でしょうか。

パウロは12節の後半から17節の終わりまで、代表制という枠組みにおける罪と恵みの関係について説明文を挿入しています。

14節後半の意味は、アダムが罪人の代表であるように、イエスも別のグループの代表をする。
 
その意味でアダムはイエスのひな型だと言っているのです。

しかしイエスの場合は、違反者の代表ではなく、恵みを受ける者たちの代表をします。

●ローマ5:19の意味
日本語の訳では「多くの人が罪人とされた」となっていますが、原典では「罪人に構成された」(アオリスト過去形)と表現されています。

同様に後半の「多くの人が義人とされる」という部分も、「多くの人が義人に構成される」(未来形)と書かれています。
 
「構成する」という言葉は、グループを形成する要素について使う言葉です。
 
ですからパウロは「ひとりの人」(アダム)に起因して多くの人がその人のグループの構成員とされ、
 
別の「ひとり」(キリスト)に起因して多くの人がその人のグループの構成員とされるということを意味しているわけです。
 
このように神は、人類を2つのグループとして見ています。

一つは、アダムによって代表される罪人のグループです。

生まれたままの人間はみな、アダムをかしらとして、この罪人グループの構成員となっています。

もう一方はイエス・キリストに代表される義人グループです。

エスを信じた者はこの義人グループの一員とされ、神はその人を義人として取り扱います。

●後戻りはない
「罪人とされた」という部分はアオリスト過去形です。

前回の日記で学んだように、このアオリスト過去形は二度起こることには使いません。

過去にただ一度だけ起こったことを描写するのがアオリスト過去形です。
 
つまり「罪人にされた」という歴史的な事実は、すべての人にたった一度しか起こらないことなのです。
 
これをクリスチャンに適用すると何がわかるでしょうか。
 
ひとたび義人グループに移されたら、二度と罪人グループに戻ることはないということです!

これは日本語の聖書では理解できない、極めて重要なポイントです。

●ローマ5:18の意味
順序が逆になりますが、この代表制を理解した上で、それを念頭に置きながら18節を読むと理解しやすくなります。

18節には「すべての人」というフレーズが2回出てきます。

最初の「すべての人」はアダムが代表しているので、全人類ということになります。

しかし二番目の「すべての人」は、キリストが代表する「すべての人」です。

同じ「すべての人」というフレーズでも、指している対象が違うわけです。

キリストが代表しているのは、将来救われて義と認められる人々です。

端的にいえば、救いに選ばれた人々です(エペソ1:4~5)。

代表制を理解しないでこの18節を解釈すると、あたかも全人類が義と認められるかのように誤解してしまいます。

このように代表制を理解して聖書を読むことは、神の視点で聖書を読むことになるのです。

●救われるとは
代表制という観点で救いを考えると、救われるということは、霊的なポジションが移動するということになります。

アダム組からイエス組に移ることであり、罪人グループから義人グループに移動することです。

この事実を知らないため、多くのクリスチャンは救われた後でもビフォー・アフターの区別が曖昧なままです。

救われたにもかかわらず、自分を罪人の延長線上で見ているクリスチャンがいますが、これは大きな間違いです。

神は、救われた人を義人グループの一員として見ているのです。

ひとたびイエス組に入ったなら、イエスの義が私たちに付与され、私たちはイエスの義を帯ます。

私たちが努力するから義と認められるのではありません。

神によって、罪人グループから義人グループに移されたから義と認められるのです。

洗礼を受けたから恵みを受けるのではありません。

エス組に移されたから恵みを受けるのです。

ですから、自分は駄目なクリスチャンだと思ったり、自分は神から嫌われていると思ったり、自分は救われているかどうかわからないと考えたりすることは、サタンの大嘘に騙されることです。

もしあなたがクリスチャンであるなら、あなたは、あるグループから別のグループに移ったのです。

あなたに対する神の見方は、完全に変わりました。

そしてひとたび神が私たちを義人ループ、あるいはイエス組の一員として見るようになったなら、二度とその見方は変わらないのです。

神は私たちを、二度と罪人として見ることはありません。

私たちは、この神の視点で自分を見る必要があります。

そのとき、神が自分にどんなに大きなことをしてくださったが、自分の中でより明確になるのです!