預言カフェと聖書
「しかし、もしみなが預言するなら、信者でない者や初心の者が入って来たとき、その人はみなの者によって罪を示されます。みなにさばかれ、心の秘密があらわにされます。そうして、神が確かにあなたがたの中におられると言って、ひれ伏して神を拝むでしょう。」 Ⅰコリント14:24~25
預言カフェに行って、預言を受けた方々のブログをいくつか拝見しました。
みなさん、預言の内容が当たっているという点で共通しています。
ただし預言の内容が当たっているからといって、その預言が神からの言葉だとは断定できません。
別の霊も、私たちのことを知っているからです。
では預言カフェに働いているのは、神ではなく悪霊なのでしょうか。
●Ⅰコリント14:24~25の解釈
アルミニウス主義的な見方をすると、上記の聖書箇所が言っていることは次のようになります。
コリント教会の集会に未信者が入って来た場合、集会で語られる預言によってその未信者の罪が暴露され、
確かに神が存在していることがわかり、その人が悔い改めて神を信じる。
しかし実際のところ、聖書は、すべての未信者に救われる可能性があるとは言っていません。
神によって選ばれ、救いに定められている人だけがイエスを信じることができます(マタイ11:27、ヨハネ6:44、10:26、使徒13:48、ローマ8:30、エペソ1:4、Ⅱテモテ1:9、同2:10、黙示録13:8、17:8、21:27)。
もし預言で自分に関する色々な事実が言い当てられたり、
罪が暴露されたりして神の存在を知的に認めたとしても、
その人が救いに選ばれていなければ真の救いには至りません。
預言カフェに来た未信者の大半が選ばれていないか、
選ばれているとしても救いの時がまだ来ていない場合、その人はすぐにはイエスを信じません。
ですから、彼らが悔い改めないという理由だけでは、預言が偽物であると断定することはできません。
預言の内容がかなりの頻度で当たっているようですので、本当に神からの預言である可能性が否定できません。
●問題点
しかし、明らかに問題点もあります。
ブログに掲載されている預言の言葉を見ると、
「愛する娘よ」とか「わが息子よ」などという呼び掛けで預言が始まっています。
当たり前ですが、未信者は神の子どもではありません。
彼らは神の被造物ですが、だからといって神の息子や娘なわけではありません。
そうでないからこそ、未信者なのです。
ですからこの点で、預言の表現に間違いがあることは明白です。
ただし、もともと預言には聖霊だけが働いているわけではありません。
聖霊と、クリスチャンの霊の共同作業です(Ⅰコリント14:32)。
ですから預言を語るクリスチャンの神学が間違っていれば、預言の文言にその間違いが現れてきます。
この間違いは人間側の間違いですから、
それを根拠に、その預言が聖霊によらず悪霊によると断定はできないと思います。
●疑い
しかし預言の内容を見て、正直なところ私は疑いも持ちました。
預言を受けた人に関する現実的な内容が当たっている、
また現実的なアドバイスが語られているのはいいとして、
ブログに掲載されている預言を見る限り、
その中で福音がまったくといっていいほど語られていないのはどうなのだろう、と思わされました。
例えば、「わたしはあなたをその問題から解放したいと願っているので、
あなたはわたし(イエス)を信じなさい」くらいの勧めがあってもいいのではないかと思います。
マルコ1:15を見ると、イエスは「悔い改めて、福音を信じなさい」と言っています。
これは第一義的には、当時のユダヤ人に対してのメッセージです(マタイ15:24)。
しかし当時のユダヤ人の多くは、救いに選ばれていませんでした(マタイ7:13、同11:25、ローマ9:8、27)。
にもかかわらず、福音を信じるように語る一面が神にはあります。
仮にカフェを訪れる未信者のほとんどが救いに選ばれていないと仮定しても、
福音を少しくらい述べることは聖書的ではないかなと思います。
●まとめ
直に現場に行って聖霊の臨在の中で預言が語れているかどうかを見たり、
カフェ創設に至る証しや預言をしている人たちの証しを聞いてみたり、
預言がきっかけとなって救われた人がどれくらいいるかなどを総合的に見てみないと、
預言カフェの預言が聖霊による働きか、
はたまた別の霊によるものかを判断するのは難しいと言わざるを得ません。