ダビデのコメントに対するご意見・ご質問への応答
民さんのブログで私が書いたコメントに、何人かの方からご意見やご質問をいただきました。
大変遅くなりましたが、この記事は、それに対する私からの応答です。
>ですが本記事は「預言カフェ」についての記事であり、CIアジアの「預言」についての記事ではありません。
論点がズレていると感じるのは、私の理解力不足でしょうか。
●応答
民さんの記事は、おっしゃるとおり「預言カフェ」についての記事です。
一方、私のコメントは「預言」そのものに関するコメントですので、その点では論点がずれていると思います。
しかし民さんの記事に向けて書かれていたコメントを読んで私が受けた印象は、
「預言カフェ」を超えて、預言自体に対する否定的な印象でした。
コメントの行間を読んだとでも言えばいいのでしょうか・・・。
はっきり覚えているわけではありませんが、現在はコメントが当初よりいくつか少なくなった気がします。
コメントされた方がご自分で削除されたのかもしれません。
私は「預言カフェ」に行って預言をしてもらったことがないので、そこで語られている預言について良くも悪くも判断することができません。
そこに働いているのが聖霊ではなく、別の霊だと判断することができません。
しかし仮に、多少、非聖書的なやり方で預言の賜物が使われていると仮定しても、
だからといって、そこで語られている預言のほとんどが偽の預言だと断定できないと思いますし、
そこに働いているのが聖霊ではなく「占いの霊」だとも断定できないと思うのです。
神は、不完全なもの、非聖書的なものを通してでもご自分を現し、働くことができる方だと思うからです。
それであのコメントを書き、私はCIアジアの預言の働き、および預言そのものを擁護しました。
>ご指摘の聖句1コリント14:29の「吟味しなさい」は間違いが許されるのではなく…その預言が聖書の真理、イエス様の御名によるものかを見極めなさいと言っているのではないかと解釈しています。
●応答
「その預言が聖書の真理、イエス様の御名によるものかを見極めなさいと言っているのではないかと解釈しています。」
この部分は、まったくそのとおりだと思います。
民さんのこのコメントは、私のコメントと矛盾しません。
それについては、最初の記事の「●吟味」の部分から読み取っていただけることを期待します。
間違った預言を語るということは、「聖書の真理」と食い違った預言を語るということです。
ですから厳密に言えば、間違った預言は預言ではありません。
預言した人の思い込みであり、誤解です。
新約時代の預言においては、そういう間違いが起こることが前提になっているので吟味しなさいということです。
その「前提」の知識が神にはあったので、パウロに14:29の内容を書かせたというのが、私のコメントの意味するところです。
>「吟味しなさい」は他の書簡にも警告されているように、
偽預言者が多く存在していたので、偽かどうか吟味する必要があったと思われます。
決して新約時代の預言は間違うこともあるという意味ではないと思います。
偽預言者が多く存在していたので、偽かどうか吟味する必要があったと思われます。
決して新約時代の預言は間違うこともあるという意味ではないと思います。
●応答
このインデックスさんのコメントも、基本的に私のコメントと矛盾しません。
ただ、「偽預言者が多く存在していたので、偽かどうか吟味する必要があった」という部分は、厳密にはⅠコリント14:29の意味するところではないと思います。
Ⅰコリ14:29は、預言した人物を見分けろ、あるいは吟味しろという意味ではなく、預言の内容のことを言っています。
「預言する者」である「ふたりか三人」は、コリント教会の集会にいつも来ている信者です。
彼らが救われた主の民、聖徒であることは、周知のことだからです。
ですから29節でパウロが言っているのは、人物の見分けではなく、預言の内容の是非を確認しろということです。
>預言って、神さまからの言葉でしょ。
それなのに、やっていることがあまりにも軽すぎる。
●応答
私は預言カフェには行っていないので、そこの方々がどういう方々か直接はわかりません。
しかし「預言カフェ」で預言をしている方々は、かなり真剣な思いで取り組んでいると、私は推測します。
神からの預言が本当に捉えられるように、また一人でも多くの人が救われるように、熱心に祈りながら預言カフェをやっているはずです。
少なくとも私が行ったCIアジアの聖会で預言の奉仕をしていた方々は、かなりハイレベルの預言の賜物を与えられている方々でした。