イエスが奇蹟を行ったのは、人としてか?
近年、アメリカのカリスマ・ペンテコステ派による悪影響が日本の教会にも及びつつある。そのひとつは、「イエスが奇蹟を行ったのは単に人としてであり、聖霊の力によってのみそうした。だから私たちクリスチャンは、イエスを模範として奇蹟を行うべきなのだ」という教えである。
こような教えを説いている本の一例として、「天が地に侵入するとき」(ビル・ジョンソン著、原題“When Heaven Invades Earth”)が挙げられる。「天が地に侵入するとき」の一節をたたき台にして、アメリカの影響にある間違いを検証していこうと思う。
●考察
話を進める前に断っておくが、私は終焉説の信奉者ではない。つまり私は、現代でも神が奇蹟を行うと信じているし、私自身のミニストリーを通しても多くの癒やしや不思議なわざが起こるのを見てきた。私は神学的にも体験的にも、継続説信奉者である。ただ、ビルジョンソンらの教えには問題があるので、それを正したいのである。
Jesus Christ said of Himself, "The Son can do nothing."2 In the Greek language that word nothing has a unique meaning—it means NOTHING, just like it does in English! He had NO supernatural capabilities whatsoever! While He is 100 percent God, He chose to live with the same limitations that man would face once He was redeemed. He made that point over and over again. Jesus became the model for all who would embrace the invitation to invade the impossible in His name. He performed miracles, wonders, and signs, as a man in right relationship to God ... not as God. If He performed miracles because He was God, then they would be unattainable for us. But if He did them as a man, I am responsible to pursue His lifestyle. ・・・(原書P28の中ほどの段落より抜粋、下線は私)
はしょり訳:
イエス・キリストはご自分について、「自分からは何事も行なうことができません」(ヨハネ5:19)と言われました。・・・イエスは超自然的なわざを行う能力を一切持っていなかったのです!・・・イエスは100%神でありながら、贖いを受けた人間と同じ制限を持って生きることを選択されました。・・・イエスは、御名によって不可能な領域に侵入しようとするすべての者の模範となったのです。イエスは神としてではなく、神と正しい関係にある人間として奇蹟やしるしと不思議を行ったのです。もしイエスが神として奇蹟を行ったのであれば、私たちにとってそれらの奇蹟は手の届かないものです。しかしもし人として奇蹟を行ったのであれば、私にはイエスのライフスタイルを追い求める責任があるのです。・・・
●問題点1
最初の問題点は、聖句の解釈にある。ビル・ジョンソンはヨハネ5:19の「自分からは何事も行なうことができません」の部分だけを抜き出して、「イエスは超自然的なわざを行う能力を一切持っていなかったのです!」と結論づけている。果たしてそういう意味だろうか。前後の文脈の中で見てみよう。
そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。」ヨハネ5:18~19
日本語訳に「自分からは」という表現があるとおり、ギリシャ語テ原典にも「from self」を意味する表現が書かれている。この「自分からは~できない」が意味しているのは、自分には主導権がないということである。つまりイエスは、父なる神のみこころから離れて、自分勝手に何かをする主導権は自分にはないと言っているのであって、奇蹟を行う能力がないと言っているわけではない。
それなのに文脈からごく一部分だけを抜き出して、「イエスは超自然的なわざを行う能力を一切持っていなかったのです!」と結論づけている。このような解釈のやり方は、明らかに文脈の中に述べられている主導権というポイントを隠すための方策であり、極めて悪質である。
つづく