ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

神はクリスチャンを罰するのか?


 キリスト教界には、律法的な携挙説(一部の熱心な信者しか携挙されない)や、自分は不忠実だから神から罰せられているのではないかと、漠然と感じるなど、聖書に書かれていないけれども、多くの人がうなずいてしまう概念があるようです。
 
 確かに、私たちを愛するがゆえに「懲らしめる」ということは聖書に書いてありますが、忠実さが不十分だからという理由で、神がクリスチャンに「罰を与える」ことはあるのでしょうか?この記事では、この点について考えたいと思います。
 
 
●御国の報酬基準
 
マタイ20815
8 こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言った。『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。』 
9 そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。
10 最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつであった。
11 そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、
12 言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』 
13 しかし、彼はそのひとりに答えて言った。『友よ。私はあなたに何も当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。
14 自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。
15 自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。』 
 
 
 部分携挙説を唱えて、熱心な信者しか携挙されないと教えている人たちは、1012節で文句をつけている労務者と同じ基準で、他のクリスチャンを裁いているのではないでしょうか。
 
 彼らは、不熱心と思われるクリスチャンには、神の恵みの代わりに罰を受けてほしいと思っているのです。
 
 彼らの報酬の基準は「人間的な義」、つまり肉の努力で神の恵みを獲得しようとするものです。
 
 しかし神の報酬基準は違います。神の主権的な憐れみに土台を置いているからです。
 
 この箇所でいえば13節15節にあるような、神が思うとおりに報酬をあげたい、という「気前がいい」価値基準です。
 
 多くの人が律法的な教えや思いを受け入れてしまうのは、人間的な基準で測ると理に適っているからではないでしょうか。
 
 一方、神の恵みは「受けるに値しない者に対する神の好意」ですから、この世的な理には適っていません。
 
 聖書は、信者の肉体の贖い(携挙)について「わたしたちは、今とは異なる状態に変えられます」と言っています(第一コリント1551、新共同訳)
 
 神は地上における信者の忠実さを基準にして携挙するのではなく、ご自分の主権的な恵みにより、すべてのクリスチャンを携挙するということです。
 
 律法的な人たちは、不熱心と思われるクリスチャンに何らかの罰を与えたいと思っているので、その思いが教えに反映されているのだろうと推測します。
 
 
罰はあり得るのか?
 
 それではクリスチャンが神から「罰」を受けることはあるのでしょうか?
 
 聖書神に逆らう人間に対する「罰」について、こう書いています。
 
 「罪から来る報酬です(ローマ6:23)
 
 つまり、もし神が私たちに罰を与えるとしたら、地上で苦しい目に遭わせる、などという生ぬるい罰では済まされません。私たちは「死」をもって罰を受ける必要があるのです。
 
 実際、人が神に逆らった場合の罰に関して、神は次のように言いました。
 
創世記2:17
「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」
 
 神に対する反逆行為、不服従の罰は「」なのです
 
 ですから多くのクリスチャンの、「自分は神から罰せられている」という”感じ”は、まったくの誤解です。
 
 
●罰はキリストが受けた
 
第二コリント521 
神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです
 
 私たちが受けるはずだった「罰」は、2000年前にキリストが身代わりに受けてくださいました。ですから私たちが「罰」を受けようとしても、もう残っていません。神には私たちを罰する理由が一つもないのです。
 
 それゆえ聖書は、クリスチャンに関してこう言っています。
 
ローマ81
こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません
 
 
「罰」の正体
 
へブル1267
主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。
 
 
 では私たちが「罰」と思っているものは、実際のところ何なのでしょうか?
 
 聖書はそれを「懲らしめ」と呼んでいます。「懲らしめ」は、この世的な定義では「罰」の一種かもしれません。
 
 しかし聖書の定義はむしろ逆で、「愛する者」であるがゆえの「懲らしめ」です。言い換えると「愛のムチ」です。
 
 
キリストも苦しんだ

へブル58 
キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び
 
 
 この箇所にあるとおり、イエス・キリストでさえ「多くの苦しみ」を体験しました。そしてその理由は、神への「従順を学ぶ」ためでした。
 
 キリストは罪を犯したことがありませんでしたから、この苦しみは罪に対する「罰」ではありません(へブル415参照)。
 
 ある方は、ここに書かれている「多くの苦しみ」とは、十字架刑のことだと思うかもしれません。しかし十字架は「多くの苦しみ」ではなく、「一度」だけの苦しみだったとペテロは言っています。
 
第一ペテロ318(新共同訳)
キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。
 

 へブル58の「多くの苦しみ」は、原典を見ると複数形で書かれています。厳密には「苦しみ」の部分に関係代名詞に相当する言葉が使われているのですが、それが複数形なのです。
 
 これによってわかることは、「多くの苦しみ」とは十字架だけではなく、全生涯を通して受けた様々な苦しみを指しているということです。
 
 油注がれたメシアでさえ、神への従順を学ぶために全生涯で色々な苦しみを体験したのですから、私たちが苦しむのは当然です。
 
参考:インターリニア聖書 
 

●結論
 
 私たちが苦しむのは、神から罰せられているからではありません。
 
 もし自分は神から罰っせられていると感じている人がいるなら、それだけ深く愛されているということです。また、それだけキリストと似た人生を歩んでいるということです。
 
私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい                         

 
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