性同一性障害者の救いの証 その3のA
ペータという名のもう一人の性同一性障害のクリスチャンの証を掲載します。
ペータの二度にわたる性転換の証
私は、子供の頃はまったく性別認識に問題はありませんでした。私が興味を持っていたのはもっと別のことで、たとえば庭の芝生の上で日の光を浴びながら、どうやったら雲に触れるだろうと考え込んだりしていました。
確かに人形で遊びましたが、トラックでも遊びました。農場での生活とはそんなものです!私の兄は年が離れていて、あまり話しませんでした。妹は悩みの種で、おてんば娘でした。妹が私をぶつのは許されましたが、私が妹をぶつのは許されませんでした。人生が不条理であることは、幼い頃から知っていました。
けれども10歳のときに、状況は劇的に変わりました。隣の家に遊びに行ったとき、その家の二人の女の子が、私たち男子に女の子の格好をさせることにしたのです。私たちはかつらをかぶり、お化粧をし、くつとスカートを履き、上着を着てモデルの真似をして廊下を行ったり来たりしました。
女の子たちは、私たちがとても女の子っぽいと言い、鏡に映して見せてくれました。私は自分の目を疑いました。自分がとても綺麗だったからです!それ以来、自分はどうして女の子に生まれなかったのだろうと不思議に思うようになり、その思いが頭から離れなくなりました。自分には深刻な間違いがあるに違いないと思うようになり、誰にも言えない恥ずかしさを感じました。
その後の人生は悪夢のようでした。可能なときはいつも、隠れて女装するようになったのです。自分の秘密が誰かに知れるのが、怖くて仕方ありませんでした。思春期になって体のことが気になりはじめると、自分の性器に嫌悪感を持つようになりました。男性器などなければいいのにと思いました。
他の男子の仲間に溶け込もうと努力しましたが、自分がその子たちととても違っていることに気づきました。私は男子が夢中になる乱痴気騒ぎが好きなれませんでしたし、デートするとき、男子が他の女の子たちを利用することも気に入りませんでした。私は、いつも女の子サイドで物事を見ていました。
19歳の頃はとても鬱的になり、引き篭もるようになり、世捨て人のように独り暮らしするようになりました。自分が普通と違っていることがはっきりわかり、内面的には生きているとは言えませんでした。
ある晩、自分の窮状について思い巡らしていたとき、自分は男ではないのだから女であるに違いない、という結論に至りました。この結論に達したことで、自分は病気ではなく、心の性が女なだけだと気づきました。とはいえ、それ以上どうすればいいのかわかりませんでしたが、同性愛の男性との出逢いによって状況が変わりました。
その人が私も同性愛かもしれないと言ったため、私は確かめなければいけないと思いました。努力はしましたが、残念ながら自分は同性愛ではないことがはっきりとわかりました。その男性が何人かのドラッグクィーンを紹介してくれて、自分も体を変えることができることがわかりました。
つづく
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