自由意志と救いの関係 その2
この記事では、「前提2:未信者にキリストを選択できる能力がある」という前提が正しいかどうかを確認します。
●人の意志は本当に自由か?
救われていない人の意志は「罪の奴隷」の状態で、罪の力で縛られています。それゆえ神に反抗します。
自由意志というのは、罪が許容する範囲の自由でしかなく、神に対しては自由ではありません。そのことは以下の箇所からはっきりわかります。
●救われていない人は神を求めない
私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。
それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。
悟りのある人はいない。神を求める人はいない。」ローマ3:9~11
この箇所でパウロは、「私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めた」と言っています。これは、1章18節以降で異邦人の罪を責め、2章でユダヤ人も罪の下にあると責めたことを指しています。
ローマ5:10には、こうあります。
もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら・・・。
現代人である私たちは、自分は自由意志でキリストを選んだのだ、と勘違いしています。しかし聖書によれば、昔も今も、生まれながらの状態で「神を求める人はいない」し、「肉の思いは神に対して反抗するもの」なのです。
●意志が機能するプロセス
イエスご自身は、救いが起こるプロセスについてこう言っています。
わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。ヨハネ6:44
第一コリント12:3の
第二コリント2:14に
生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。
とあるとおり、未信者は神の真理を受け入れることができません。私たちがイエスを主と認めるようなになったのは、私たちの知性が優れていたからではありません。聖霊の働きによって思いが変えられたからにすぎないのです。
使徒16章のルデヤの救いについても、同様のことが書かれています。
このように、私たちがキリストを信じることを選択できる状態になるのは、その前に神の介入があり、心の状態が変えられているからです。
●まとめ
私たちが救われたのは、①神の選びと予定に基づき、神から救いが差し出されていたからです。差し出されていなければ、神からの啓示がないため、イエスが救い主であることがわかりません。
救いが差し出されていなくても、福音が正しいことを知性で認めることは可能です。しかし神による啓示がないので、キリストとの人格的な出会いには至りません。
②私たちが救いを受けたい、キリストを受け入れたいと、自分の意志で求めるようになったのは、私たちが優れていたからではありませんぢ、意志が自由だったからでもありません。生まれながらの人間には、真理を受け入れる能力はないのです。
あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。 エペソ2:4~5
それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。・・・だれも誇ることのないためです。 エペソ2:8~9
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