ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

「主の日」についての考察 2テサロニケ2:1~3


 
 終末論について考えてみました。
 
 
テサロニケ1と2から見た「主の日」
 
2テサロニケ2:1~3
さて兄弟たちよ。私たちの主イエス・キリストが再び来られることと、私たちが主のみもとに集められることに関して、あなたがたにお願いすることがあります。
霊によってでも、あるいはことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によってでも、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。
だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです
 
 
 2節の「来た」と訳されている言葉はエニステミーといい、
 
「~が存在する」というのが原義です。
 
 なのでパウロは、「主の日がすでに存在しているかのように」思ってはなりません、
 
 と言っていることになります。
 
 
「現れる」と訳されている言葉はアポカリュプトーといい、
 
 覆い隠されていたものの覆いを取り除き、物事を明らかにすることを言います。
 
 
 2テサロニケの箇所からわかることは、
 
「主の日」(人類への裁き)は「背教」と「不法の人」が到来するまではやって来ない、
 
 ということです。
 
 しかしだからといって、クリスチャンが患難期を通過するわけではありません。
 
 それは1テサロニケ5章からわかります。
 
 
1テサロニケ5:2~10 (岩波翻訳委員会訳)
あなたがた自身、主の日は夜の盗人のようにしてやって来るのだということを、正確に知っているからである。
人々が「平和だ、そして安全だ」と言う時、ちょうど胎に〔子を〕もつ者を陣痛〔が襲う〕ように、思いがけない滅び彼らを急襲する。そして彼らは〔それを〕免れること
はないであろう。「であろう」は推量でなく未来形。クリスチャンは滅びを免れる
しかし、兄弟たちよ、あなたがたは暗闇の中にはいないので、その日が盗人のようにあなたがたを捕らえることはないであろう主の日は、クリスチャンには無関係
なぜならば、あなたがたすべては光の子たち、すなわち昼の子たちなのだから。私たちは夜の〔者〕でも暗闇の〔者〕でもない。救われている人には無関係
それゆえに私たちは、他の人たちのように眠らないで、むしろ目を覚まし、そして素面(しらふ)でいようではないか。
まさしく、眠る者たちは夜眠るのであり、酒に酔う者たちは夜酔うのである。
しかし、私たちは昼の〔者〕なのであるから、信仰と愛との胸当てと、救いの希望という兜とを〔身に〕着けながら、素面でいようではないか。
というのは、神は私たちを、怒りへとではなく、私たちの主イエス・キリストをとおしての救いの獲得へと定められたのだからである
〔その主は、〕私たちが、目を覚ましていても眠っていても、彼と一緒に生きるようになるために、私たちのために死んで下さったのである
 
 
                パウロによる対比
 
    人々    ⇔    兄弟たち
 
霊的特徴:夜の者」「暗闇の者」「滅び ⇔「昼の者」「光の子」「救いの希望
 
      霊的特徴:眠る」「酒に酔う」⇔「目を覚ましている」「しらふ
 
         神による定め:「怒り」 ⇔ 「救いの獲得
 
 
●まとめ
 
 上記のように、パウロは、未信者と信者の違いをくどいほどに対比させています。
 
 背教が起こり、不法の人が登場するまで携挙は起こりませんが、
 
 クリスチャンが「主の日」を通過することはありません。
 
 エレミヤが預言しているとおり、
 
 主の民は「その日」から「救われる」のです。
 
 
ああ。その日は大いなる日、比べるものもない日だ。それはヤコブにも苦難の時だ。しかし彼はそれから救われる。 エレミヤ30:7
 
 
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