クリスチャンとポストモダニズム その2
前回からの続き
このような誤解の根底には、何があるのでしょうか?
それは単に聖書の内容がはっきりわからないということではなく、もっと根本的な問題です。聖書を福音主義的に理解できなくなってきているのです。
訳注:「福音主義的」というのは、聖書の言葉一つひとつが、神の霊感によって書かれているということ(逐語霊感説・2テモテ3:16参照)。
私たちは説教を聞き、聖書研究会に参加しますが、実際のところ聖書が何なのかという根本的な確信を失いつつあるのです。
訳注:ポストモダンの特徴の一つは、逐語霊感説を否定すること。
聖書を単なる人生のガイドブックか生活マニュアルとして扱うなら、神の声を聞くという根本的な目的が失われてしまいます。
聖書を単なる知恵の書と考え、聖書から自分のお好みの知恵をつまみ食いするなら、神が実際に何を言っているかではなく、書かれていることを自分がどう感じるかが中心になってしまいます。
その場合、私たちクリスチャンは、多元論者になってしまうのです。そのようなことは容認できません。
訳注:1+1=2です。真理は一つだけなので、真理の特徴は一元的と言えます。しかしポストモダニズムでは、真理かどうかの決定権は受け取り手にあるので、複数の真理が存在しても良いことになり、多元的になってしまいます。
そのようなアプローチは、「聖書を使うことによって、私には何ができるでしょうか?」と質問することと同じです。しかしその質問は間違っています。
これでは、聖書が存在しているのはあくまでも自分のためであり、何が自分に適しているかを決めるのも自分だという前提になっています。(神ではなく)自分が中心にいるのです。
私が神の言葉のもとにひざまずき、御言葉が私を支配することを認めるのではなく、私が権威の座について神の言葉を判断し、私の必要や願望が、御言葉の権威よりも上にあるという前提になっているのです。
しかし聖書を神の言葉として受け取るなら、それに優ることはありません。御言葉の中にいるのは私ではなく、神になるからです。
私にとって最も重要なものを知っておられる方が、御言葉をとおして物事を決めるのです。私には選択的に読んだり、適用したりする自由はなくなります。なぜなら、すべての御言葉が私に関係あるものだからです。
つづく