自分が信じているか信じた気になってるだけか知る事は出来ますか?
2番目の質問に対する答えの中心は、神や主イエスを体験的に知ることにありました。
救われるということは、神と主イエスを体験的に知ることに他ならないからです。
3つ目の質問の答えも、これに関連します。
3つ目のご質問:自分が信じているか信じた気になってるだけか知る事は出来ますか?
これは、とても良い質問だと思います。
この質問を言い換えると、こういう事だと思います。
自分は本当に救われているのだろうか、それとも、救われていると思い込んでいるだけなのだろうか?
それを知るにはどうすればよいのだろうか?…
* * *
前回も述べたとおり、キリストを真に信じたのであれば、それは福音を知的に承認したという精神的行為を超越した出来事です。
その人はすべての罪が赦され、あらゆる穢れから清められ、永遠のいのちが与えられ、天の国籍を手に入れました。
キリストの体である教会の一員にもなりました。
将来的には、復活による栄光の体を受けることになります。
これらを示す聖句や聖書箇所は膨大にありますが、この記事で取り上げたいのは次の2箇所です。
ヨハネ10:14
わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。
わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。
さて、14節の「わたしのものは、わたしを知っています」の「知っています」も、前回取り上げたギノスコー(体験的に知る)です。
ですから、「わたしのものは、わたしを知っています」と主が言われたとき、それは真のクリスチャンは「わたし(=キリスト)を体験的に知っています」と言われたのです。
同様に、14節の「わたしはわたしのものを知っています」と27節の「わたしは彼らを知っています」もギノスコーです。
つまり、羊飼いのイエスさまと羊である私たちクリスチャンは、互いに互いを体験的に知り合っているということです。
単なる知的認識だけではなく、それを超えた関係的(relational)な知識によって互いを認識しているのです。
この体験的認識には、霊的な交わり(交流)が含まれます。
具体的には、日々の祈りやそれに対する答え、聖書や聖霊を通しての語り掛けなどです。
こういった霊的交流がキリストや神と信者の間に頻繁にあるなら、それがその人にとって火を見るより明らかな救いの証明になるはずです。
なぜなら、繰り返し述べてきたとおり、永遠のいのちとは神やキリストを体験的に知ることだからです。
逆に、頭で神やキリストを知っているだけなら、それは好ましい状態とは言えません(救われていない不信者でも牧師や神学者になることは可能です)。
なぜなら、知的な認識だけでは聖書的ではないからです。
聖書的な認識の在り方には、体験的なものが含まれていなければなりません。
よって、質問に対する答えとしては、神との交流や霊的な体験があるか否かでご自分が真に信じているか否かを判断できるということだと思います。
つづく