ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

質問者さんへの応答 前半

 
 今回のご質問は以下のとおりです。 
 
隣人を愛せ 敵を愛せとありますが、隣人はノンクリスチャンの悪人、敵は自分に危害を加える犯罪者をも含むのですか?そもそも愛するとはどういうことなのでしょうか? 迫害する者のために祈れとありますが、予定説が正しいならば何を祈るのですか? 人を赦せとありますが、赦すべきなのは同じクリスチャンであり、相手が本当に悔い改めている場合ですか? 赦しの内容は個人的な怒りや憎しみ、復讐心を取り除くことですか? 相手を訴えるのもやめなければならないのですか? また、クリスチャンの敵への愛や赦しの教義を悪用され、つけこまれるのはどのようにして防げますか?それともつけこまれるままでいなければならないのでしょうか?
 
 
 まずは、次の部分についてお答えします。
 
隣人を愛せ 敵を愛せとありますが、隣人はノンクリスチャンの悪人、敵は自分に危害を加える犯罪者をも含むのですか?
 
 
 こういった疑問を持たれる方には、次の本をお勧めします。
 
 コーリー・テン・ブーム著「わたしの隠れ場
 
 
 彼女の体験に関しましては、河野ハレのブログから引用させていただきます。

彼女はヒットラーナチスによって、家族と共に死の強制収容所に送られました。

想像を絶する残忍行為がなされる中で、食事もろくに与えられず、多くの人々が病気と飢えで死んでいきました。

家族のうち生き残ったのは、ただコーリーだけでした。

戦後、彼女は著名な執筆家・講演者となり、愛の神が生きて働かれることについて、世界各国で証します。

しかし、心の奥底では、あの残忍なナチに対しては、どうしても赦すことができませんでした。

 コーリー・テンブームがいつものように講演会で話し終わったその時です。

収容所で人々にひどい虐待を加えていたその男がコーリーの方に向かってきました。

過去の場面が次々に彼女の脳裏によみがえってきました。

大きな部屋の頭上をこうこうと照らすライト、部屋の真中に積み上げられたドレスや靴の山、裸でこの男の前を歩かされた屈辱感、、、、、、、場所はラベンズブルック強制収容所

そして今、コーリーに近づいてくるその男は、そこでも特に残忍な兵士でした。

その彼がコーリーの前に立ち、『自分が犯した多くの罪を悔い改めてクリスチャンになりました。

どうか、私を赦してください』と握手を求めて手を差し出しているのです。

 しかし、コーリーは、、、、そこに立ったまま、彼を赦すことができませんでした。

「赦さなければいけない!

それは分かっていました。

神が赦してくださる前提条件として、自分を傷つけた人を赦さなければならないのです。

エス様は次のように言われました。

「あなたが人を赦さないなら、あなたの父もあなたを赦しません」(マタイ615

 しかし、彼女は冷たく心を閉ざして、彼の前に立ちすくんでいました。

「イエス様、助けてください!」

 彼女は黙って祈りました。

 そして、彼女はぎこちなく無感動に、彼の手に自分の手を出しました。

 その瞬間、信じがたいことが起きました。

 電流がコーリーの肩から腕を走り、握手した二人の手に流れたのです。

 いやしの炎がコーリーの全身を駆け巡り、目に涙があふれてきました。

「兄弟、私はあなたを赦します!」

 コーリーは叫んでいました。

「心の底から、、、、」と。

 かつての強制収容所の捕虜コーリーとナチの兵士の二人は、長い間しっかりと手を握り合っていました。

 彼女は言います。

「これまで、これほどまでに強烈な神の愛を体験したことはありません。これは私の愛ではなく、神の愛そのものでした」。



聖書箇所の解説
 
 質問者さんのコメントの背景となっている聖書箇所は、マタイ5章です。
 
 この箇所をごく手短に説明しようと思います。
 
 
マタイ5:43~45
『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。
 
 
 この文脈を見ますと、イエスさまが言うところの「敵」という存在を限定する条件がないことがわかります。
 
 45節に「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる」とあります。
 
 太陽や雨といった自然の恵みを指して、神学者は「一般恩恵」あるいは「一般恩寵」などと呼びます。
 
 一般恩寵を限定する条件がないのと同じように、「敵」を限定する条件もありません。
 
 クリスチャンであろうと未信者であろうと、善人であろうと悪人であろうと、(天の父のように)区別をつけずに愛することがイエスさまの教えです。
 
 その良き事例が、先に挙げたコーリー・テン・ブーンの体験に現れていると思います。
 
 
そもそも愛するとはどういうことなのでしょうか?
 
 イエスさまや天の父が質問者さんにしてくださったことを思い出すなら、愛することがどのようなことかわかるのではないでしょうか。
 
 私たちは、神やイエスさまに何の良いこともしませんでした。
 
 しかし、私たちが神やイエスさまを知る遥か前に、神は主の十字架で私たちの罪を贖ってくださいました。
 
 つまり、無条件の贖いです。
 
 この十字架の中に、私たちが見本とすべき愛の姿があると思います。
 
 イエスさまは、次のように言われました。 
 
 
ヨハネ15:12
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。
 
 
 主の十字架こそ、「わたしがあなたがたを愛した」の部分を体現した行為だと思います。
 
 次の13節には、このように書かれているからです。
 
 
ヨハネ15:13
人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
 
 
 つまり、イエスさまにとって、自分を十字架につけたローマ兵や弟子たちを含め、人類史上に存在するすべての人間が「友」であるということです。
 
 イエスさまは、すべての人のためにいのちを捨られたからです。
 
 
迫害する者のために祈れとありますが、予定説が正しいならば何を祈るのですか?
 
 また、イエスさまは、「迫害する者のために祈りなさい」という言葉も十字架で実践されました。
 
 
ルカ23:34
そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」
 
 
 これは、イエスさまが十字架に架けられたときに語られた祈りの言葉です。
 
 この祈りの「彼ら」に含まれているのは、ローマ兵だけではありません。
 
 その場には存在しなかった私たち全員も含まれています。
 
 十字架のイエスさまを模範にしたのが、ステパノです。
 
 
使徒7:59~60 
こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。「主イエスよ。私の霊をお受けください。」
そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。
 
 
 これらの手本を見れば、敵のために何を祈るべきかわかると思います。
 
 つづく