質問者さんへの応答・続編 その3
今回のご質問は以下のとおりです。
救いに選ばれていない者が、私が貴方にした質問のような悩みをすることもあるのでしょうか?
まったくないとは言えません。
しかし、自分が救いに選ばれているか否かと悩む未信者は少ないと思います。
特に日本では。
なぜかと言いますと、信じることが救いの条件であることを示す聖句が聖書には数多く書かれているからです。
ヨハネ3:15
それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。
ヨハネ3:16
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
使徒16:31
ローマ10:9
これらの聖句は、人の意思で信じることが救いの条件であることを示しています。
意思を働かせるのは自分自身ですから、信じるか否かを決めるのも自分自身です。
これらの聖句からは、選ばれた者が救われるという概念は見出せません。
しかし、まったくの未信者ではなく、求道者のような方が教会などで選びによる救いの知識を得て、悩むことはあるかもしれません。
改革派や長老派の教会では選びによる救いの教理が強調される可能性がありますから、求道者の方はそういった話を聞くことになるのではないかと思います。
中には、自分は神に選ばれているだろうかと悩む人がいるかもしれません。
もし読者の方の中で、そういう実話をご存知の方がおられましたらコメントしていただけると感謝です。
最後のご質問:無条件的選びというのは神がサイコロを振って選民を決めるのに近いものなのでしょうか?
それは違うと思います。
以下に理由を示します。
エペソ1:5・新改訳
エペソ1:4・新共同訳
上記で「愛をもって/愛して」と訳されているのは、「エン アガペー」というフレーズです。
原文ではこのフレーズが4節と5節の境目にあるため、新改訳のように5節の一部として訳す場合もあれば、新共同訳のように4節の一部として訳すこともあります。
いずれにしても、神が私たちを選んだ動機が愛であることに変わりはありません。
私たちが選ばれたことはサイコロのように偶然の結果ではなく、愛による選びです。
ただし、私たちが神に愛され、選ばれた理由(要因)は不明です。
言い換えると、私たちの側に愛される理由があった訳ではないということです。
* * *
サイコロを振って決めることは偶然だと言いましたが、箴言によれば偶然ではありません。
箴言16:33
くじは、ひざに投げられるが、そのすべての決定は、主から来る。
人はくじをひく、しかし事を定めるのは全く主のことである。
ですから、サイコロの使い方と似ていると思います。
しかし聖書は、ゴラルの結果は神による決定であると教えています。
つまり、神の前に偶然はないということでしょう。
だとすれば、私たちが救いに選ばれたことも偶然ではないのです。
神の意思のうちには、何らかの必然があったのでしょう。
しかしそれは、私たちには絶対にわかりません。
ただひたすら、恵みによって選ばれたとしか言いようがありません。
2テモテ1:9
神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。