ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

万人祭司は永遠のテーマ

昨年の暮れ、黙示録を読んでいたとき、20章4節を通して神さまからあることを教えられた。

この箇所によれば、この世が終わり千年王国が始まったとき、すべてのクリスチャンは主イエスと共に王また祭司として仕えることになる(黙示録5:10も参照)。なので、今、地上にいる時から祭司として仕えことは、将来の備えになるということだ。

見方を変えると、天でも地上でも神を賛美し礼拝することがクリスチャンにとってなすべきことであるのと同じ様に、私たちが祭司として仕えることは、今この時であろうが来るべき世であろうが、未来永劫に至るまで神の御心だということである。

●問題点
ところが問題は何かというと、こんにちの教会が、聖書が言うところの万人祭司の務めから大きく逸れてしまっていることである。教会の定期集会で奉仕するのは牧師を中心とした一部のクリスチャンだけで、大半の人たちは集会中、椅子に座って話を聞いて、時間が来たら家に帰ってゆく。これでは万人祭司とは言えない。

そして更に大きな問題は、万人祭司として主に仕えることと、キリストを教会のかしらとすることは実は切っても切り離せないのだが、こんにちの教会において、このキリストをかしらとすることが大きく失われてしまっていることである。その最たるしるしは、牧師と呼ばれる人間がキリストにとって代わって教会のかしらを務めていることだ。

教会における奉仕が、牧師を中心とした一部の人たちに集中していることは、万人祭司制の大きな妨げである。なぜかと言うと、特別な訓練を受けた有給の奉仕者がコミュニティーの中に常駐していたら、他の人たちは必ずその人に頼るようになるからである。たとえ牧師にも他の信者たちにもそのつもりはないとしても、そうなってしまうものだ。それは趨勢なのである。私たちハウスチャーチも、牧師こそ存在しないが、人間のリーダーに頼ってしまいやすいという点は、一般の教会となんら変わりはない。

●昔は違った
1世紀の教会には、有給で教会のリーダーを務める人物は存在しなかった。有給の奉仕者が定着したのは、3世紀にローマ皇帝コンスタンティヌスが、クリスチャンたちを彼が建てた特別な建物に集めて礼拝をさせるようになり、その定期集会を仕切る奉仕者を国家の給料で働かせるようになったのが始まりである。それまでは、兄弟姉妹たちは自分たちの家々で集まり、ひとり一人が使徒の教えと聖霊に聞き従い、キリストが各集会・各教会のかしらとなっていたのである。だからこそ迫害下でも教会は増殖し、ローマ帝国をひっくり返すまでになった。キリストがかしらになっていたからこそ、教会にそのような力があった。

●2009年のテーマ
万人祭司が神の変わることのない願いである以上、私たちクリスチャンはそれを実践するべきである。私たちのハウスチャーチの2009年のテーマは、まさにこの万人祭司の実践だと思う。


ご親切な方は、ここをクリック。
    ↓↓↓↓↓
https://philosophy.blogmura.com/christian/ にほんブログ村 キリスト教