ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

■什一献金-捧げる必要はあるのか?■

こんにち、キリスト教会では、什一献金なるものを要求される。果たして、それは本当に捧げる必要があるのだろうか?

●みことば
「キリストが律法を終らせた」ローマ10:4
「律法と預言者ヨハネまでです」ルカ16:16
「もはや養育係の下にはいません」ガラテヤ3:23~25

●「什一」=律法の一部≒昔のイスラエルの税金
1 レビ記27:30~33+民数記18:21~24=土地の収穫の十分の一⇒レビ人のために捧げる

2 申命記14:22~26=土地の収穫の十分の一⇒金に替え、主の選ばれる場所へ行き、好きなものを買ってそれを家族とともに主を喜ぶために食べる。27節に「レビ人をないがしろしてはならない」とあるので、一部はレビ人のために使ったかもしれない。

3 申命記14:28~29=3年ごとの什一⇒在留異国人、みなしご、やもめのためのサポート。

「これが聖書中の什一です。つまり神はイスラエル人に収入の23.3%を毎年捧げるように命じたのです。10%ではありません。(20%を毎年捧げ、3年に一度もう10%捧げるということは、平均すると年に23.3%になる。)これらの什一は、土地から採れた種、果物、家畜を含みます。収穫物であって、お金ではありませんでした。イスラエルは、国家公務員(祭司)のための出費を補い、休日(いくつかの祭り)のための出費を補い、貧しい者たちを助けるために、什一を義務付けられていました。こんにちの税制と同じような目的で徴収されたのです。

エスの死によって、ユダヤ人に関わるすべての規則は十字架につけられ、葬られました。ですから、私たちを責めるためにそれらが用いられることは、もはやありえないのです。新約聖書の中に、クリスチャンが什一をした記事が見られないのはこのためです。それは、こんにち、私たちの罪をきよめるために、ヤギや雄牛をほふることがないのと同じことです。」

注:「」部分はPagan Christianity、P173から引用、Tyndale House Publishers、2007年発行)

このように什一は、昔の宗教国家イスラエルにおいて、いわば国家公務員であったレビ人を支えるための税金のようなものだった。レビ記27:30に「地の十分の一は、・・・みな主のもの」とあるが、これをイスラエル人が怠ったので、主は預言者マラキを通して「わたしのものを盗んでいる」と叱った(マラキ3:8~10)。税金が滞ったのでは、国家が成り立たないからだ。こんにちの教会で、この箇所に基づいて什一献金を語るが、まったく意味が違っている。クリスチャンは霊的イスラエルだが、大昔のイスラエル民族ではないからだ。

●什一献金のはじまりと変遷
3世紀、カルタゴのシプリアンが、聖職者を経済的に支援する習慣について、最初の文献を残した。シプリアンは、レビ人が什一で支えられていたように、聖職者も什一で支えられるべきだと述べている。

7世紀と8世紀のヨーロッパでは、地主が土地を貸し出すことは経済の常道であった。地主への支払いを計算する際に使われていた一般的な方法は、10分の1、つまり什一であった。ヨーロッパにおいて、教会は力と富を持つようになり、土地を所有するようになった。そのため10%の使用料は、世俗の地主よりも教会関係の地主に支払われることのほうが多くなった。この状況を背景に、10%を教会に捧げるという行為は旧約聖書の律法に当てはめられるようになり、レビ的什一として、教会における新たな風習となったのである。こうしてヨーロッパの土地借用制度と旧約聖書の習慣とが相まって、キリスト教の制度として定着していった。10世紀の終わりには、土地借用料としての什一は姿を消すが、ヨーロッパのいたるところにおいて、宗教的習慣として法的に義務化された。

つまり什一は、8世紀以前は自発的に捧げられるサポート献金であったわけだが、10世紀の終わりまでに、法的義務として課せられるようになった。こんにち、什一は法的義務ではなくなったが、宗教上の義務的習慣として生き続けている。

注:参考文献Pagan Christianity、P176~178、Tyndale House Publishers、2007年発行。 

●聖職者の給料としての什一
3世紀以前は、キリスト教奉仕者は無給であった。しかしローマ皇帝コンスタンティヌスが、聖職者に固定給を支給する習慣を制度化し、聖職者の給料制度が誕生した。その風習がこんにちも伝統となって生き続けている。しかしこの有給の聖職者という存在自体が、もともと新約聖書には存在しないのである。

注:旅をしながら教会開拓をしていた使徒は、「聖職者」とは別物なので、混同しないように注意していただきたい。奉仕者が無給であったことは、新約聖書で「長老」「監督」などと呼ばれている現地在住の奉仕者が無給であったため。参考文献:「牧師たちへの直言」http://www.water.sannet.ne.jp/tlccc-gifu/

新約聖書献金
*競灰螢鵐硲后В窟誘いられてではなく、喜んで捧げるチアフルギビングが基本精神。
*ローマ15:26,競灰螢鵐硲江蓮■隠院В検腺
また新約聖書時代の教会では、献金は困窮している兄弟姉妹を助けるため、あるいは巡回する使徒たちを経済的に支援するための捧げていた。

注意:汽灰螢鵐硲隠蕎呂魄棏僂靴董∨莉菊鑈貌釮妨ザ發垢襪茲Δ剖気┐詈幻イあるが、その聖書箇所は、当時のエルサレムの貧しい兄弟姉妹(「聖徒たち」1節)のための義援金であって、こんにちの席上献金などのような習慣化した風習とは別物。

●まとめ
収入の十分の一を捧げることは、昔のイスラエル民族に与えられた律法の一部である。しかしその律法は、キリストが終らせた(冒頭のみことば参照)。また什一献金は、中世ヨーロッパにおいて教会に導入された習慣に過ぎない。なので、新約時代に生きる我々は、捧げる必要はない。

聖書では、貧しい兄弟姉妹たちを助けるために献金することを教えているが、こんにちの什一献金は、貧しいクリスチャンであっても守るよう教えられる。つまり逆に、もっと経済的に苦しくさせる面がある。

会堂維持費や牧師たちの給料で経費が掛かるので、そのつじつまを合わせるために合理的に利用しているのである。実際は、むしろクリスチャンたちを縛り、重荷を負わせている役割のほうが大きいと思われる。

使徒パウロは、兄弟姉妹たちに重荷を負わせたくなかったので自分の手で働いていた。その精神をこんにちの聖職者は学ぶべきではないのか。

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