■アブラムの什一献上-什一献金の根拠になる?■
ある方々は什一献金の聖書的根拠として、創世記14章でアブラムが祭司メルキゼデクに戦利品の十分の一を与えたことを挙げる。律法の付与以前にも収入の十分の一を捧げる習慣があったというのである。アブラムの什一献上は、果たして本当にその根拠になるだろうか?
●アブラムの什一の発端と性質
14章を最初からよく読むとわかるように、アブラムがメルキゼデクに什一を捧げた発端は、エラムの王ケドルラメオルら4人の王たちとアブラム一行の戦いである。4人の王がソドム、ゴモラの王たちを打ち破った際、アブラムのおいロトと彼の財産を奪ったので、それを取り返すために戦った。アブラム一行は勝利し、4人の王から戦利品を押収した。戦利品の内容は、.愁疋爐肇乾皀蕕料敢盪困反糧(創14:11)および▲蹈箸犯爐虜盪困任△襦複隠粥В隠押法戦いに勝利して帰還したアブラムは、祭司メルキゼデクに戦利品の十分の一を分けた(14:20)。
ここで注目していただきたいことがある。アブラムはエモリ人たちと盟約を結んでおり(14:13)、ロトの救出に加えて、この盟約が戦いの理由になっている。
つまりアブラムは、いわば異邦人たちの代理人、あるいは助っ人として4人の王と戦ったのだ。これではいくら戦利品を獲たといっても、アブラムの個人的な所得とは言えない。義理があったので取り返したまでだ。またアブラムは、戦利品の残りをすべてソドムの王に返却しており(14:22~24)、自分の取り分はゼロである。また什一の献上はこのとき限りで、繰り返されていない。
従って、アブラムの什一献上は、こんにちの什一献金とはまったく性質と趣旨が異なっている。これを什一献金の根拠とするのは、いささか無理があろう。
●メルキゼデク登場の意味
さて、創世記においては、メルキゼデクが突然登場し、アブラムから什一を受け取った理由は不明である。しかしヘブル書7章がそれを説明している。
・7章の概要
メルキゼデクはキリストの予表であること(7:2~3)
律法は廃止されたこと(7:18)
新しい永遠の大祭司であるキリストが完全に人を救うことができること(7:25)
つまり、創世記の執筆者(モーセ)が、メルキゼデクとアブラムの十分の一献上の記事を掲載した目的は、こんにちの什一献金を正当化するためなどではなく、メルキゼデクがキリストの予表としての役割を果たすためであったというのが正しい理解である。
伝統に染まったこんにちのキリスト教が、その伝統を正当化し維持するために、いかにいい加減な論理展開をしているかがおわかりいただけると思う。
立派な神学校を卒業した先生方(場合によっては、神学校で教えておられる先生方)がそういういい加減な論理をクリスチャンたちに教えているのだからまったくあきれてしまう。へたに伝統に執着してつじつまを合わせようとするので、論理がねじれてわけがわからぬことになるのだ。
しかし、そのわけのわからぬ論理を信じ込んでしまう我々にも問題があるかもしれない。
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●アブラムの什一の発端と性質
14章を最初からよく読むとわかるように、アブラムがメルキゼデクに什一を捧げた発端は、エラムの王ケドルラメオルら4人の王たちとアブラム一行の戦いである。4人の王がソドム、ゴモラの王たちを打ち破った際、アブラムのおいロトと彼の財産を奪ったので、それを取り返すために戦った。アブラム一行は勝利し、4人の王から戦利品を押収した。戦利品の内容は、.愁疋爐肇乾皀蕕料敢盪困反糧(創14:11)および▲蹈箸犯爐虜盪困任△襦複隠粥В隠押法戦いに勝利して帰還したアブラムは、祭司メルキゼデクに戦利品の十分の一を分けた(14:20)。
ここで注目していただきたいことがある。アブラムはエモリ人たちと盟約を結んでおり(14:13)、ロトの救出に加えて、この盟約が戦いの理由になっている。
つまりアブラムは、いわば異邦人たちの代理人、あるいは助っ人として4人の王と戦ったのだ。これではいくら戦利品を獲たといっても、アブラムの個人的な所得とは言えない。義理があったので取り返したまでだ。またアブラムは、戦利品の残りをすべてソドムの王に返却しており(14:22~24)、自分の取り分はゼロである。また什一の献上はこのとき限りで、繰り返されていない。
従って、アブラムの什一献上は、こんにちの什一献金とはまったく性質と趣旨が異なっている。これを什一献金の根拠とするのは、いささか無理があろう。
●メルキゼデク登場の意味
さて、創世記においては、メルキゼデクが突然登場し、アブラムから什一を受け取った理由は不明である。しかしヘブル書7章がそれを説明している。
・7章の概要
メルキゼデクはキリストの予表であること(7:2~3)
律法は廃止されたこと(7:18)
新しい永遠の大祭司であるキリストが完全に人を救うことができること(7:25)
つまり、創世記の執筆者(モーセ)が、メルキゼデクとアブラムの十分の一献上の記事を掲載した目的は、こんにちの什一献金を正当化するためなどではなく、メルキゼデクがキリストの予表としての役割を果たすためであったというのが正しい理解である。
伝統に染まったこんにちのキリスト教が、その伝統を正当化し維持するために、いかにいい加減な論理展開をしているかがおわかりいただけると思う。
立派な神学校を卒業した先生方(場合によっては、神学校で教えておられる先生方)がそういういい加減な論理をクリスチャンたちに教えているのだからまったくあきれてしまう。へたに伝統に執着してつじつまを合わせようとするので、論理がねじれてわけがわからぬことになるのだ。
しかし、そのわけのわからぬ論理を信じ込んでしまう我々にも問題があるかもしれない。
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