ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

■新約聖書が語る牧会とは■

ここでは、こんにちの牧会と聖書が教える牧会の違いを考えたい。

●書簡の宛て先
使徒たちが諸教会に手紙を書くときは、教会に問題があったり、教会が危機に瀕していたときである。それゆえ、手紙が誰に宛てて書かれていたかを見ることによって、誰が教会における問題解決や牧会の責任を持っていたかがわかる。

ローマ1:6b~7「このパウロから、ローマにいるすべての、神に愛されている人々、召された聖徒たちへ」

汽灰螢鵐硲院В院腺押嵜世里澆海海蹐砲茲辰謄リスト・イエス使徒として召されたパウロと、兄弟ソステネから、コリントにある神の教会へ」

競灰螢鵐硲院В院嵜世里澆海海蹐砲茲襯リスト・イエス使徒パウロ、および兄弟テモテから、コリントにある神の教会、ならびにアカヤ全土にいるすべての聖徒たちへ」

ガラテヤ1:1~2「使徒となったパウロ・・・および私とともにいるすべての兄弟たちから、ガラテヤの諸教会へ」

エペソ1:1「神のみこころによるキリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ」

ピリピ1:1「キリスト・イエスのしもべであるパウロとテモテから、ピリピにいるキリスト・イエスにあるすべての聖徒たち、また監督と執事たちへ」

コロサイ1:1~2a「神のみこころによる、キリスト・イエス使徒パウロ、および兄弟テモテから、コロサイにいる聖徒たちで、キリストにある忠実な兄弟たちへ」

汽謄汽蹈縫隠院В院屮僖Ε蹇▲轡襯錺痢▲謄皀討ら、父なる神および主イエス・キリストにあるテサロニケ人への教会へ」

競謄汽蹈縫院屮僖Ε蹇▲轡襯錺痢▲謄皀討ら、私たちの父なる神および主イエス・キリストにあるテサロニケ人の教会へ」

これらを見るとわかるように、パウロが諸教会に手紙を書くときはいつでも、「聖徒たちへ」「神の教会へ」「忠実な兄弟たちへ」「教会へ」というふうに全教会宛に書いている。例外的にピリピ人への手紙だけは「監督と執事たち」が登場するが、それも一番最後に付け加えられているのみである。

パウロが手紙を書くときは、たいていの場合が、教会に問題があるか、教会が危機に瀕している場合であった。それゆえ手紙には重要な励ましや教え、指示などが数多く含まれている。

それなのに長老たちや牧師には宛てずに、全教会(各教会のすべての兄弟姉妹たち)に宛てて書いている。こんにち、教会に問題がある場合や教会が危機に瀕している場合、指導者たちはまず牧師に連絡を取るし、牧師に指示を与える。牧師を飛び越えて、教会の兄弟姉妹たちに対していきなり牧会に関する指導を伝えたりはしない。

ところがパウロは、汽灰螢鵐箸世韻如峽残錣燭繊廚箸いΩ討啌櫃韻鬘械芦鶲幣紊盪箸辰討い襦あたかも教会にリーダーがいないかのようである。忘れてならないのは、コリント教会と言えば、新約聖書中で最も問題があった教会だったということだ。それなのに「長老たち」へは一切呼び掛けていない。

ペテロも同様だ。

汽撻謄蹌院В院腺押屮ぅ┘后Εリストの使徒ペテロから、・・・選ばれた人々、すなわち、父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、・・・選ばれた人々へ」

競撻謄蹌院В院屮ぅ┘后Εリストのしもべであり使徒であるシモン・ペテロから、私たちの神であり救い主であるイエス・キリストの義によって私たちと同じ尊い信仰を受けた方々へ」

新約聖書において、全教会を指す「兄弟たち」という言葉は364回使われている。パウロ書簡だけで134回。それに比べて「長老たち」は5回、「監督たち」が4回、「牧師」は1回である。つまり新約聖書の書簡のほとんどは、教会の兄弟姉妹たちに宛てて書かれているのだ。

注:テモテやテトスは牧師ではなく、使徒であった。こんにち、テモテのへの手紙やテトスへの手紙は牧会書簡と呼ばれているが、パウロは彼らに使徒の役割を教えているのであって、地域教会の牧会を指導しているのではない。

●教会に対する牧会の指示内容

互いに愛し合いなさい(ローマ12:10、13:8、汽謄毅粥В后↓汽撻藤院В横押↓汽茱錬魁В隠院

互いを尊敬しなさい(ローマ12:10)

一致しなさい(ローマ12:16、汽撻謄蹌魁В検

互いに徳を高め合え(ロマ14:19、汽謄毅機В隠院

受け入れ合え(ロマ15:7)

互いに訓戒し合え(ロマ15:14)

集会や活動の運営(汽灰蝪隠院В械押腺械魁同14:29~30、16:2~3)

互いにいたわれ(汽灰蝪隠押В横機

みなが預言できる(汽灰蝓

主の働きに励め(汽灰蝪隠機В毅検

互いに仕え合え(ガラ5:13)

互いに重荷を負い合え(ガラ6:2)

互いに忍び合え(エペ4:2)

互いに親切に(エペ4:32)

詩と賛美と霊の歌で互いに語り合え(エペ5:19)

互いに従い合え(エペ5:21)

互いに赦し合え(コロ3:13)

互いに教え合え(コロ3:16)

互いに戒め合え(コロ3:16)

互いに励まし合え(汽謄毅機В隠院▲悒屮襭魁В隠魁

気ままな者を戒めよ(汽謄毅機В隠粥

弱い者を助けよ(汽謄毅機В隠粥

互いに勧め合え(ヘブル10:24)

注意し合え(同上)

祈り合え(ヤコブ5:16)

罪を告白し合え(同上)

互いにもてなし合え(汽撻藤粥В后

互いに交わり合え(汽茱錬院В掘

●まとめ
これらの「互いに~し合いなさい」の意味するところは、教会の牧会責任は全員で共有せよということである。使徒たちの手紙の書き方、またその内容からわかることは、牧会とは教会の兄弟姉妹全員で行なうものであって、一人あるいは一部のリーダーたちが行なうものではないということだ。ここに聖書が教える牧会方法と、こんにちの牧会方法の大きな違いが如実に現れている。こんにちの教会のように、牧師が一人で牧会するという概念は新約聖書にはまったく書かれていないし、そういう牧会は聖書的ではないのである。新約聖書の諸教会では、牧会は牧師ではなく、兄弟姉妹たちの手の中にあった。聖書の教える牧会は、有機的な共同体による牧会であって、個人によるものではないのだ。

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