ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

駐車スペースの選択(続き)

●反対意見

「でもフランクさん。箴言3:6にはこう書かれています。『あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道を導いてくださる(英訳)』と。」

ところがヘブル語の原典は「あなたの道をまっすぐにされる」と言っているのです。ですから、この箇所は、あなたが決断するたびに、神があなたの決断を導いてくださるという約束ではありません。この箇所の意味は、あなたが、自分ではなく主に信頼するなら、主はあなたの道をまっすぐにしてくださるという約束なのです。

「それでは、イザヤ30:21はどうですか。そこにはこう書かれています。『あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め。」と言うことばを聞く』と。」

この箇所の文脈では、イスラエルが主に逆らっている状況にあります。そこで神は、イスラエルの民を戒めるために、「苦しみというパンと敵という水」(30:20英訳)を与えたのです。この戒めは、イスラエルを本来の状態に戻し、彼らが霊的な教師の声に従うようにするための措置でした。


21節にある「ことば」という単語は、倫理的御心の知識を意味しており、イスラエルが律法に従うべきであるという内容を示しています。また「右」「左」という表現は、倫理的御心から踏み出してしまうことを意味しています。箴言4:27に「右にも左にもそれてはならない。あなたの足を悪から遠ざけよ」とあるとおりです(申命記5:31~32、17:18~20、ヨシュア1:7も参照)。

ですからイザヤ30章は、主の民が何かの決断をするときに、神が導いてくださるという約束ではありません。単に神が民を義の道に戻すことを述べているのです。「これが道だ」とは、それが神の倫理的御心であるということを表しています。

「ならばエペソ2:10はどうですか。『私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです』とあります。

これは逆に、倫理的御心をまっとすることに関して述べている箇所です。良い行ないとは、私たちを通してなされる神の働きのことです。神はそれらをあらかじめ知っておられる。私たちが生まれる前から、私たちが行うであろう行ないを神は知っているという意味です。ですから、神は、私たちが非倫理的な判断をする際、それを導いてくださるという意味ではありません。この箇所は、私たちを通して表されるキリストの義の働きについて語っているのです。

他にも主の導き関する箇所はあります。ひとつ提案をさせてください。それらの箇所を読むとき、文脈全体から意味を捉えるようにしてください。そしてその箇所が、倫理的御心について述べていのるか、それとも非倫理的事柄に関する判断について述べているのかを考えていただきたいのです。そうすれば、それらの箇所はいずれも倫理的御心に関して述べているのであって、非倫理的判断を神が導くという意味ではないことに気付くはずです。


(つづく)


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